小説「海に沈む空のように」第1回 一瞬の闇に包まれて

 志賀優子はパソコン画面の5ページめの最後の文章を確認するとファイルを再保存し、画面右下のデジタル時計を見た。画面には午後8時5分と表示されている。そのままパソコンをシャットダウンすると大きく背伸びをした。アメリカの作家であるコリーウイルソンがレポートした未解決殺人事件パートⅡの翻訳は今、始まったばかりだ。
 一昨年の春に同じ作家が世界の未解決事件をまとめたノンフィクション『リアルケース』が売れたことから、パートⅡを出版することになったのだ。優子は都内の私立大学を卒業後は会社に就職することもなく、学生時代から始めていた翻訳の仕事をそのまま自分の生活を支える仕事とした。決して実入りのいい仕事とは言えなかったが、自分の好きなことを仕事として選べたことに満足している。
 翻訳は比較的、ノンフィクションが多かったが人物評伝やビジネス書から小説までジャンルは広く、事件ノンフィクション物を扱うことにも違和感はなかった。父親の雄一郎が裁判官だったことから、何かと事件に関しては幼い頃から一般の人と比べて耳にする機会が多かった。編集者もそんな優子を見込んで一冊目の『リアルケース』の翻訳を依頼してきたのだ。もちろん、この本は雄一郎にも本が完成してすぐに渡した。
 優子は椅子から立ち上がると台所のテーブルに置いてあった財布をバッグに入れた。今日は少し急いで仕事を進めなければいけない。いつも余裕がある日は、夕方からマンション近くのスーパーに買い物に出かけ料理を作るのだが、締め切りが近くなった日など忙しい日は、コンビニエンスストアで弁当を買ってくる。以外とずぼらな面があった。今年で37歳になる優子は独身だが、父親の雄一郎や母親のさなえから見合いの話を頻繁に聞かされている。5歳年上の兄・昭雄は既に結婚し十歳になる娘もいる。
 優子もあと3年もすれば40歳になるのだ。女性の婚期は年々に遅くなっているとはいえ、三十路になる頃には落ち着く女性は多い。このままでは一生を独身で過ごすことになってしまうと危惧する両親は、何とか自分たちが元気なうちに優子に結婚してほしいと考えているのだ。しかし、なかなか親の思うように育たないのが子供たちでもある。
 その点で優子は十分に親不孝だと言えた。本人もそのことを自覚しているが、良縁に巡り合わない。特に最近は翻訳業などを生業としていては家に籠ることが多くなり、良縁も遠ざかってしまうと母親から愚痴られることが増えていた。
 既に高校時代や大学時代の同級生には既婚者が多く、たまに開かれる同窓会でも全く話が合いそうにないと優子は一人、会からの帰り道に思うのだった。友人の夫の愚痴や子育ての大変さを聞かされると、自分はこのまま結婚しないで一生を終えるかも知れないと。
 優子は自分の部屋の一階ドアに鍵をかけ、そのままマンションのエントランスの方に向かった。中央で広いドアが自動で開くと外に出た。3月の中旬、この時間帯はまだ風が冷たい。ひんやりとした空気が優子の頬に触れた。階段を下り道を左に曲がる。この辺りは少し暗い。
 駅までの少し広い通りまで5分程歩くが、いつも優子が少し気持ちを引き締める所だ。四十メートル程の暗い道の間には外灯がないのだ。人工ではあるが両脇はうっそうとした林が茂っている。今、住んでいるマンションに引っ越してきた頃には、都会の一角に作られた小さな雑木林の空間が気に入っていたのだが、いつの頃からか、この空間が不気味に思われるようになった。何となく、どうしてここにマンションなどの建物ができないのか不思議に感じるようになったのだ。
 薄暗い空間は区が指定している緑地再生地区ということでもないからこの土地には、建造物を建設できない理由があるのではないかとすら考えるようになった。そういえば、自分の住むマンションも荻窪駅から優子の足で徒歩20分程の距離にある。建築5年で2LDKだが2500万円と安かった。管理する不動産会社の担当者は、3年前に優子が相談に訪れた際には、とにかく買い得の物件だと言い続けた。
 そう言えば雑木林のある地区についても、2年後にはマンションが建設されると話していたことを優子は忘れない。しかし、3年が経過した現在も、雑木林にマンションが建設される様子はない。そのことを思い出してから、なおさらに優子はこの雑木林を不気味に感じるようになった。
 自分たちが住んでいる場所というのは日進月歩に変化している。特に東京などの全ての面でスピードの速い都会では次々に建物が建てられては壊され、また建築されていく。少しのスペースさえも決して空き地や緑の空間として残そうとなどしない。駅近くの人通りの多い地帯であれば喫茶店やコンビニ、ドラッグストアなどの商業施設、津繁華街から少し離れた住宅街であれば家やマンション、駐車場などでスペースを次々に埋めていく。
 とにかく金儲けには余念がないのが人間だ。不動産屋が話していた雑木林でのマンション建設の話は嘘だったのか、それとも何らかの理由で中止になったのか。優子は確認していない。良くも悪くも歴史的な大きな出来事などは50年前や百年前に日本や世界で何が起こったのかを知ることはできるが、それはデータとして残っている事実を確認するという行為に過ぎない。そんな事実でさえデータを残す側によってねつ造されてしまう。今を生きる人々はそれをなぞっているに過ぎないのだ。
 予知できる人や予感、予想、推測できる人は確かに存在するが、ほとんどの事象は本当はどうだったのかなど、その現場にいなければわからないのだ。だから、優子も不気味な雑木林のことを不動産屋に聞いても本当のことは分からないだろうと考えていた。ある意味で優子は真実を知ることが怖かった面もある。
 今は自分の住むマンションを引き払うつもりはないからだ。優子の住むマンションの部屋数は25部屋で満室だった。人にとっては変な場所だと感じても不思議はないから満杯にはならない筈だったが、いつのまにか満室になっている。
 優子は雑木林を抜け突き当りを左に折れた。ここから駅までは、牛丼屋、コンビニエンスストア、八百屋など何件かの商店が続く。 優子は牛丼屋の先にあるコンビニエンスストアに入った。いつもの聞き慣れた音楽が耳に届く。何となくリラックスできる聞き慣れたBGMだ。雑誌コーナーの前に立ち女性誌を手にした。気分転換には女性誌がいい。ページを一ページずつめくっていくと、カラフルなモデルの服装にときめく。
 午後八時半を過ぎると、このコンビニエンスストアに女性の姿を見かけることは殆どない。しかし優子はそんなことは気にしない。雑誌を立ち読みし続けることもみっともないと思わなくなった。男性誌を立ち読みする男性客の隣で、自分は堂々と雑誌に目を通す。買い物をするのだから、別に立ち読みしても構わない。3冊程の女性誌に目を通すと文庫コーナーにも目を向ける。
 店には売れ筋の漫画や雑誌や書籍しか置かない。売れない物は即、商品棚から降ろされる。出版物も状況は変わらない。インターネットの急伸で漫画など出版物もデータ商品が伸びるなかで、書店代わりのコンビニエンスストアの出版コーナーはより競争が激化している。
 優子は書籍コーナーではさっと目を向け、チルドコーナーの前に立った。迷わずいつも買うヨーグルトを小さな買い物かごに入れると先に進む。レジ近くの弁当コーナーには上段2段におにぎり、下段の2段に弁当が数個並べられている。優子は大きく深呼吸する。この時間帯にはあまり優子が食べたいと思う弁当は並んでいない。やはり、弁当を買うならもう少し早めに店に来るべきなのだ。
 これがスーパーなら話は別になる。午後8時30分を過ぎると、多くの店では弁当が半額になる。スーパーは商品も多く、当日内に売り切ることを余儀なくされるから、半額にしてでも販売するのだ。だから客には男性客が多くなる。それなら仕入れる弁当を減らせばいい、と考えるのが一般的だ。
 だが、店には別の目的がある。弁当を半額にすることでその時間帯には来店客数が急増する。客は弁当が半額になるのが目的だが購入するのは弁当だけではない。お茶や酒やお菓子、弁当が少なければ惣菜も買っていく。そうして店は客をひきつけリピーターを増やしていく。
 優子は稲荷寿司と巻き寿司がセットになった商品を買い、お菓子コーナーでチョコレートを買い物かごに入れた。レジの方に進むと20代のサラリーマン風の男性客が一人、支払いをしている。優子はレジ付近の待ち線付近で待った。やがて男性客が支払いを済ませると販売員が優子に挨拶した。優子は代金のおつりを受け取ると店の外に出た。何か夕方から集中して仕事を進めたせいか、今日は頭が重いように感じ、このまましばらく頭を冷やすために駅の方に歩こうと決めた。
 どうしても翻訳作業は一人でパソコンに向かうために一日中、人と会うことがない日が多い。以前はそんな優子を心配して母親のさなえは、特に用事がなくても優子に電話をしてきたものだ。優子は母親と話すことで気分が楽になることが多かった。他愛のない話だが気分転換になるのだ。よくカラオケに行くと気分がよくなるが、人は何でもいいから声を出すことが大事なんだと優子はこの時から思うようになった。一人でカラオケに行くわけにはいかないから、自分自身も特に用がなくても母親に連絡をするようになった。
 ただ、最近ではそんな母親に元気がなくなっていた。数年前から耳が不自由になり補聴器をつけるようになったが、電話で話すことにもさなえが不自由を感じていることが優子には分かるようになったのだ。やがて電話は1週間に一度位になった。最近では3週間に一度、連絡するかしないかという月も増えている。
 だから優子がどうしても声を出したいと思う日は部屋で歌を口ずさんだりするようにしている。パソコンの前に座ってひたすら活字を入力するだけの毎日というのは決して身体に良い影響がない。締め切りの都合上、どうしても部屋にこもりがちになり運動不足になりがちになってしまうのだ。
 優子は駅の通路を通り抜け反対側の南口に出た。バス停があることから、帰宅を急ぐ人々が長い列を作っている。先の商店街には3件程の居酒屋の看板が続く。その前をさらに先に進んだ所でUターンした。来た道を戻り北口へ出て先程、買い物を済ませたコンビニエンスストアの前を過ぎ角を右に折れた。暗闇に浮かぶ雑木林の前を少し早歩きで過ぎマンションの前で立ち止まった。誰かいるような錯覚にとらわれたのだ。
 入り口の前で後ろを振り向くと、いつもの暗闇が浮かんでいるだけだった。気のせいだと感じたまま、マンションの入り口前に立つと自動ドアが開いた。中にも誰もいない。左側のポストで自分の部屋の番号の蓋を開けた。少し大きめの封筒が二通入っていた。仕事先の出版社から届いたものだ。優子は差出人を確認しながら一階の自分の部屋に向かった・・・。
 しかし、本当に世の中は一寸先が闇なのだ。翌日の夕方、優子はこの世から去っていたことが判明する。

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