小説「海に沈む空のように」第3回 ある日、闇に流れた噂

 9階建てのオフイスビルにはスポーツウエア会社やワイン輸入販売会社、ソフトウエア会社など4社が入居している。各フロアには大きな窓が6つずつ設置されていた。清掃員の中井浩二はロープに付けられた椅子に腰かけ、中性洗剤を吹きかけながらスクイージーで汚れを拭き取っていく。ここは高いビルが隣接していることからビル風が強い。手際よく作業を進めなければいけないのだ。
 浩二は強い風が吹くと作業を中止し上下を確かめる。今日のように風が吹きやすい日は、ビル屋上と地上に一人ずつ作業員が待機する。高層ビルなどでの壁面修繕作業員や高圧洗浄作業員などは足場作りから洗浄が終わるまで一瞬も気を抜くことはできない。一歩、足場を踏み間違えれば転落し大けがを負うか死んでしまう。ビルの窓ガラスクリーンも状況は変わらない。
 浩二はこの仕事に就いて2年目を迎えようとしている。高所作業は時給で計算しても他の時給とは格段に高い。1日に実労7時間でも1万円を稼ぐことができる。しかも日中作業だ。浩二はいつの頃だろうか一人で山に出かけることが増えていた。仕事もできるなら、人と接しない方が自分には合っていると思うようになった。
 高校を卒業してから塗装業や建築業、飲食業など数多くの仕事を経験してきたが、22歳を過ぎてビル清掃に関心を持つようになった。会社の環向はオフイスビルやマンションの清掃、修理などを事業としている企業で正社員が50人程に契約社員60人程が在籍している。
 浩二は2年前に契約社員として入社したのだった。始めの年はビルの窓ガラス清掃でもガラスが低い位置にある大型のガラスの清掃が多かったが、最近になって高層ビルのガラス清掃も任されるようになった。とにかく、高所作業は命がけの作業になるから、安全に業務を遂行できると上司に承認されるまで現場では作業に取り掛かることができないのだ。
「中井、そこが終われば終了だから」
 地上20メートル下から先輩の金井徹が声をかけた。
「了解です」
 浩二は大きな声で答えた。午前8時半にはスタートした作業も昼食と休憩をはさんでようやく終わろうとしている。交代制とはいえ九階建てのビルのガラス清掃は普段よりも多くの労力を要する。
「今日は風が強かったから、途中で何度か中断した分、時間をとられたな」
 屋上の平山順平に終了の合図を送りながら金井が、一方で地上に就いた浩二に言う。
「そうっすね。なんか、本当に風が強いっすね。ここは」
「ビル風が吹きやすいんだな、このあたりは。注意しないとなあ」
 金井はロープを手繰り寄せた。
「今日はこれで社に一旦、引き上げて終了だから。給料出たばかだから、軽く飲みにでもいくか」
 ワゴン車に清掃用具をかたづけながら金井が浩二を誘った。
「どこに行くんだ」
 平山が後方から声をかけてきた。
「いや、安い居酒屋ですよ。軽く行こうかと思って」
 平山は金井の二年先輩にあたる。
「平さんも行きますか」
 ワゴン車の運転席についた金井が後方に座った平山の顔を車内フロントガラス中央のミラーからのぞいた。
「いいよ。今日は。用事があるから」
「そうですか。じぁあ、今度」
 金井は言いながら車のエンジンを入れた。
独身の金井は酒を飲むのが好きで、給料が出ると必ず浩二を飲みに誘ってきた。浩二も特に用事がない日は断ることをしなかった。人付き合いは得意ではなかったが、金井は何かと浩二の相談に乗ってくれるよき先輩でもあったのだ。浩二の勤務する環向の社員と契約社員では給料も違う。平山と金井は社員だから浩二とは給料も多い。
 中野の現場から環向の本社がある荻窪まで車で四十分ほどで着いた。浩二は用具類を倉庫に片付けると本社3階のロッカー室へと向かった。午後6時過ぎ、1階事務所のタイムカードを押すと、荻窪駅前のドールコーヒーへと向かった。いつも飲みに出かける日は、金井とここで待ち合わせすることに決めている。会社から一緒に出るのはどうも具合が悪いというのが金井の言い分だった。
 この日は1軒目に駅近くの居酒屋に入り、午後8時過ぎ荻窪駅から数分歩いたところのビル2階にあるキャバクラ「キャットウオーク」に入った。金井はこの店にお気に入りの女の子がいるのだ。エレベーターが2階で停止し扉が開いた。浩二の目の前に「キャットウォーク」の看板が見えた。金井がその扉を開ける。中からハイテンポの音楽が聞こえてきた。
「いらっしゃいませ」
間を置かず店員が入り口付近に出てきた。
「2名様、ご指名はありますか」
「マキさんいますか」
 店内の大きな音に消されないように金井が声に出した。
「マキさんですね。かしこまりました。奥へどうぞ」
 店員が中に案内する。金曜日の午後8時過ぎ、薄暗い店内はまだ、空席が目立つ。
「こちらにどうぞ。マキさんは少々、お待ちいただきます」
 金井と浩二が壁側の席に着いた。他の店員がおしぼりを渡した。
「ボトル入っているから。えっとね。ジンロ。名前はキンコンカン」
金井が店員に言う。
「かしこまりました」
 店員が笑顔で答えた。マキは人気のあるキャバクラ嬢なのか、指名とは違う他の女性二人が目の前に現れた。
「はじめまして。ケイです」
 ロングヘアーの女性が挨拶した。
「サクラです。よろしく」
 
もう一人のショートカットの女性が浩二の隣で笑顔を見せた。引き続き店員がメニューを広げてテーブルの上に置いた。
「なんか飲む?」
 金井が聞いた。
「じゃあ、私、キール」
 サクラが答えた。
「レッドアイいただいていいかしら」
 ケイが落ち着いた声で聞いた。
「じゃあ、それ二つ、あと、ミックスナッツとおしんこ」
 金井が店員にオーダーした。
「初めてじゃないんでしょう」
 ケイが金井に言った。
「そうだね。何回目かな」
 少し照れた金井が浩二の顔を見る。サクラがグラスに氷を入れた。
「これ位でいいの」
 グラス半分に焼酎を注ぎながら聞く。
「いいよ」
 金井が答えた。
「この店、いつも金曜日は満員になるよね。流行っているんだ」
 金井がグラスを受け取る。店員がキールとレッドアイを運んできた。
「じゃあ、乾杯」
 金井がグラスを上げた。店内にはハイテンポの曲が流れ続けている。
「マキさんのお客さん・・・でしょ。綺麗だから彼女」
 サクラが笑顔を見せた。
「サクラさんも可愛いよ、なあ」
 金井が浩二に言う。
 浩二は首を縦に振った。
「ええ。誰かに似ているよね」
 浩二が焼酎を飲んだ。
「えーっと、最近、人気が出た女優の・・・名前。青井ゆうだっけ。今。ドラマやっているでしょう。結構、面白いやつ」
 金井がナッツをほおばる。
「そう?たまに似ているって言われるけど」
 サクラがうれしそうに手をパチンと叩いた。
「お名前はなんて言うの」
 ケイが聞いた。
「金井・・・こちらは浩二・・・」
 金井が浩二を見る。浩二は再び首を縦に振った。
「金井さんと浩二さん・・・」
 ケイが浩二のグラスに焼酎を注いだ。サクラの後方から店員が声をかけてきた。サクラは頷くと金井と浩二の前でグラスをかざした。しばらくしてケイも席を立った。
「おまたせしました」
 サクラが席を立つと同時にユキが座る。
「いそがしいんだね」
「今日は金曜だから、いらっしゃい」
「何か飲む?」
 金井が聞く。
「じゃあ、マティーニをいただくわ」
 ユキが近くに立っていた店員を呼んだ。ユキは目が大きくどこかエキゾチックな雰囲気のする女性だった。髪は肩まで伸ばしストレートパーマに黒のロングドレスを羽織っている。左の胸元に流れるような流星の装飾があった。ハーフを思わせる風貌に凹凸の目立つタイトな身体のラインが眩しい。
「最近、この近くのマンションで殺人事件があったってこと知っています?」
 唐突にマキが金井に聞いた。

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