小説「海に沈む空のように」第4回 ブルーシートを揺らす重い影

「殺人事件?」
「さっきのお客さん、たぶん、どこかの週刊誌の記者だと思うだけど・・・」
「記者?」
 金井が店の出口方向に顔を向けた。
「こちらからも職業とか聞かなかったんだけど。お客さんも何も言わないし」
 マキが左手で軽く髪を上げた。店員がマティーニを運んでくる。「いただきます」
 金井と浩二のグラスにマキがマティーニの入ったグラスをあてた。
「そのお客さん、帰ったの?」
「うん、開店してすぐに来て、一時間半くらいいたかな」
「殺人事件って・・」
 金井と浩二が顔を見合わせた。
「この近くのマンションで女性が殺されたらしいんだけど。私は結構、ニュースとかワイドショーとか見る方だから、すぐに分かったの。住所がお店の近くだから特に覚えていたんだけど」
「この付近は繁華街を少し先に行くと住宅街ですもんね」
 浩二がポツリと言った。
「殺された人、私と年齢が近かったから怖いなあって・・・」
「まだ見つかっていないんだよね。犯人・・・」
 金井が焼酎の水割りを飲み干した。マキが新たにグラスに氷を入れる。
「そう。で、言いにくいんだけど。その記者らしい人、この店にくるお客さんのこと、聞いてきたの」
 マキが少し声のトーンを低くした。
「部屋にお酒が結構、残っていたらしいから」
「酒・・・・って」
 浩二が聞いた。
「殺された人も飲んでいたらしいんだけど。近くのコンビニで買ってきた缶ビールや缶チューハイが部屋に散乱していたらしいから。どこかで酒を飲んだ帰りにコンビニで酒を買った可能性もあるとか言っていたわ。とにかく酒が好きな人物の犯行には違いないって話していたわ」
「酒の好きな人間はどこにもいるからね、なあ」
 金井が浩二に話しかける。
「そうですね。嫌いな人の方が少ないんじゃないすか」
「女性はともかく、男性だったらほとんど飲むよな。会社の連中なんか皆、酒が好きなんじゃないの」
「そうっすね。社長くらいっすよ。いつも酒は飲みすぎるなっていうの」
 浩二の声が大きくなった。
「そうだな。わが社の連中は皆、飲むから」
「今度、皆さんを連れてきてくださいよ」
 マキが笑った。
「いいよ。そのうちね」
 金井が少し困惑したような表情を見せながら、焼酎を一気に飲んだ。
「でも、どこの記者だろ、今度、名刺をもらったらいいじゃん」
 金井が話を変えた。
「何か殺された人が翻訳の仕事をしていた人らしいんだけど」マキが氷を店員にオーダーした。
「特に雑誌関係の人は若い女性が殺されたら記事にするんじゃないの。でも私もこの店でそんなお客さんは初めてだわ」
「なんて聞いてきたんですか」
 浩二が真顔でマキに聞いた。金井が再び、困惑した表情を見せる。楽しみにマキに会いに来たのが暗い内容になってしまった。
「私はよく分からないんだけど。とにかく何かヒントになること手探り状態で探しているようだったわ」
「マキちゃんはどこに住んでるの」
 金井がナッツを口にする。
「私は中野の方だから」
「中野か、でも比較的近いよね。ここから」
「金井さんはどこですか」
 マキが金井に焼酎を注ぐ。
「俺は少し遠いから・・・西船橋の方だから」
「結構、遠いですね」
「中井の方が近いかな、立川だから」
「そうっすね。でも駅から自転車で三十分程ですから」
「そうなんだ。中井さんは立川なの」
 マキが浩二の方を見た。
「ええ。会社が荻窪だから・・・金井さんは飲むの好きだから。自分も誘われてきますけど」
「ごめんなさい、話すのに夢中になっちゃって。もう一人、女の子呼んだ方がいいわね」
「今日はそろそろ時間だから。今度、来たときにはもう一人・・・」金井が浩二の顔を見た。
「そ、そうっすね」
 浩二が笑顔を見せた。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
 金井が浩二の肩を叩いた。二人が店を出たのは午後十一時半を過ぎた頃だった。金井も浩二も酔いが回っている。
「マキちゃんいい女だろ」
 駅に向かう途中で金井が浩二に言った。
「モデルみたいですね。結構、ああいう人は人気があるんじゃないっすか」
「そうだろうな。本人はそんなことないっていうけど。ま、一緒に飲むにはいいけど。口説くには金がかかるだろうな」
 金井も自分がどんな女性を指名しているかを理解しているようだった。
「だから、たまに話すにはな、いいと思ってさ」
 金井が少し照れた表情を見せた。
「そうっすか」
「おっと、急がないと終電に遅れるわ。悪いけど先に行くぞ」
 急に金井が酔いが冷めたように言い出した。
「ご馳走さまでした。お疲れさまです。じゃあ、また月曜日に」浩二は先を急ぐ金井に頭を下げた。明日の土曜は月に1度の休みで 日曜と続けての連休だった。
 浩二もいつもの金曜とは違い少し気持ちが楽だったせいか酒量も多くなった。酔った足取りで駅の方に歩きながら、ふと右奥の方に目を向けると、青いブルーシートが薄明りに浮かんでいるのが見えた。そこが殺人事件があった場所だとすぐに分かった。この辺りは普段から会社に行く途中の道だから、マキから話を聞きながら、酔ってはいてもだいたいの殺害現場のマンションの位置は検討がついていたのだ。
 浩二はマンションの方に足を向けた。誰がブルーシートの向こう側の部屋に住む女性を殺したのだろうか。浩二を重い感情が襲う。呼吸することさえ苦しくなる重い感情は酔った浩二を正気にさせる勢いを持っていた。しかし、正気になっても呼吸はできない。ただ、心臓の鼓動だけが高まるのだった。ふと誰にも言えない衝動が25歳の浩二を引き裂くように今も突然に襲ってくる。浩二は何かに引き込まれるように殺人現場のマンションに向かう。
「すみません」
ブルーシートの30メートル程前で立ちすくみ、荒げた呼吸を整えるように何度も深呼吸する浩二の後方から声が聞こえた。
「大丈夫ですか」
 浩二は驚いて後方を振り向いた。
「え、ああ、大丈夫です」
「この近くの人ですか」
 眼鏡をかけショルダーバックを肩にかけた、痩せた中年の男が浩二の前に立っている。
「い、いえ・・・たまたま通りかかっただけです。何かあったのかなって」
 大きく浩二は深呼吸した。酔いが一気に醒める。
「まだ、警官がうろついているから近づかない方がいいよ。マンションには」
 男がブルーシートの方を見た。
「な、何かあったんすか。あのマンションで」
 浩二が聞いた。
「うん、ちょっとね。酒、飲んできたの?」
「ええ。分かりますか」
「酒臭いからね」
 眼鏡の男が少し笑った。暗い中でも電燈の薄明りで男の目の下の隈が浮き立つのが分かった。浩二はすぐに記者だと分かった。
「この近くに住んでいるの?」
「いえ、でも会社がここから15分くらいの所だから」
「そう。じゃあ、この辺はよく通るということか」
「ええ、通勤経路っすから」
 浩二が腕時計で時間を確かめた。
「ちょっと終電に間に合わないんで、すみませんが」
「そうか、もしかしたらまた、連絡するかも知れないから」
 男はジャケットの内ポケットから名刺を出すと浩二に渡した。
 浩二は荻窪駅に向かいながらふと、父親の亨のことを思い出した。不吉な予感のするブルーシートを見て蘇る重い感情を消せない。亨は1年前に浩二の前から姿を消した。その2年前まで刑務所に収監されていたが、出所後は定職に就くことなくぶらついていたが、家出して以降は、その後の行方が分からない。亮には兄弟もなく浩二の祖父にあたる父親も既に他界している。
 当時85歳だった亨の母親である康子は七十五歳を過ぎたころから認知症を患っていた。亨は妻の紀子とともに自宅介護を続けていたが、夜中に何度も自分を呼び、家の内外を徘徊し続ける康子の介護に疲労困憊し、ある日の夜に首を絞めたのだった。懲役2年の判決となった亨は出所後は覇気のない表情となり、妻の紀子や浩二ともあまり話さなくなった。
 夜中に半狂乱となる認知症の康子がいなくなったことで、少しは安らぎが戻ってくるはずの家族の間には、冷たい亀裂のようなものができてしまったのだ。亨は自分の母親を殺害したことで仕事を失い、その分、妻の紀子は保険外交員として早朝から夜遅くまで働く日が多くなった。浩二も清掃の仕事で日曜日以外は殆ど、家には眠りに帰るだけだった。

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