小説「海に沈む空のように」第6回 静かに崩れ始めた絆

「よっ、久しぶり」
 戸田典夫が昭雄に声をかけてきた。通信会社に勤める戸田はスーツを着たまま、春山こずえは金曜は勤務先の広告会社がカジュアルデーなのかブルーのデニムにワイドパンツ姿だった。
「大変だったね」
 戸田が下向き加減に言いにくそうに口にした。昭雄は二人の前に座った。こずえの目が心なしか潤んでいる。
「悪いね、皆に迷惑かけちゃって」
 昭雄がコーヒーを頼んだ。
「バンドの方は大丈夫だから、気にしないでいいよ」
 戸田の声にこずえも頷いた。
「今日もスタジオに入るんでしょう」
 昭雄が聞いた。
「一応ね。練習だけはやろうかって。皆、熱心だから」
 戸田が少し笑顔を見せた。
「今後は参加できないだろうから。他のメンバーを探してほしいんだ」
 昭雄が唐突に、しかし、はっきりと言った。
「ほ、他のメンバーって。アキちゃん、落ち着いたら、またやるだろ」
 戸田が驚いた表情を見せた。
「しばらく休むよ。バンドやっているとね。家族のこともあるしね」
「時子さんはバンド活動に関しては前向きに考えてくれているんじゃないの」
 戸田が腕組みしたまま聞いた。
「娘が生まれる前まではね。でもね、正直、今まで家族サービスもあまりしてこなかったし」
 昭雄の前で戸田とこずえが黙った。
「仕事もどうなるか分からないしね」
 昭雄が続けた。
「バンドのことは言いから。しばらく練習は休んでさ」
 戸田が続けた。
「とにかくバンドは辞めるから、悪いけど」
 昭雄がはっきりと言った。
 昭雄が店を出たのは午後八時過ぎのことだった。三月の初旬の東京はまだ寒い。戸田たちと店の前で分かれ、そのまま恵比寿駅へと向かった。いつもならバンド仲間と一緒に演奏の練習をしている頃だ。しかし、今の昭雄にはギターを手にする気持ちも、もちろんスタジオに入ってコンサートのための演奏の練習をすることなど考えられなかった。
 今日、昭雄はバンドを辞めるとはっきり仲間に伝えたのだ。新宿方向に向かう山手線は帰宅を急ぐサラリーマンたちで混んではいなかったが座席は埋まっていた。
 昭雄は出入り口付近に立った。ドア越しに映る自分の顔がやつれて浮かぶ。自分の生活の基盤が足下から一気に崩れたような、どこかに自分が浮遊しているような感覚・・・・表現できない疲労がのしかかった。このまま家に帰らずどこか海外に出かけ、日本から消えてしまいたいと思う。全てを捨てて消えてしまいたい。昭雄は何度もそんなことを考えた。一体、この自分は何が悪いというのか。
 昭雄にとらえようのない怒りがこみあげてくる。なぜ、自分はこんな状況に追い込まれなければいけないのか。
ほんの1か月前までは普通に仕事を楽しみ、家庭を楽しみバンド活動を楽しんできたのだ。そんな生活が突然に、父親と妹が死ぬという現実に押しつぶされてしまった。
 午後9時過ぎ昭雄が三鷹市の自宅に着くと妻の時子が台所で炊事をしていた。
「お帰りなさい」
 時子は炊事をやめようとしない。
「今日は早かったのね」
「バンドメンバーと会ってきた。辞めたからバンド」
 昭雄は言うと奥の洗面で手を洗う。
「仕方ないわね。まだいろいろやらなきゃいけないことも出てくるだろうし」
 昭雄は時子の言っている意味を何となく理解した。家族の不幸な出来事には、どこかで全てを慎まなければいけないという理由がある筈だ。
「しばらくバンド活動を休むというわけにはいかないからね。メンバーに迷惑かけるし」
「そうね・・・・」
 時子が水道の栓を閉めた。
「陽花は2階?」
 昭雄が時子からご飯の入った茶碗を受け取った。
「勉強しているかどうか分からないけど。部屋にいるわ」
「春から5年生か、早いね。落ち着いたらまた、一緒にテーマパークでも行くか」
「4月からは日曜の午前中は塾かピアノの練習が結構、入ってくるから」
 昭雄の向かいに時子が座った。
「そうか。日曜はピアノの練習か。いつか一緒に音楽をやりたいな」
 「陽花はプロを目指すわけじゃないから」
時子がお茶を飲んだ。
「そうだね。プロの道は厳しいからな。よほど好きならなあ」
「ダメよ。歌手なんて無理だから。そんな家系じゃないわ」
 時子の口調が少し強くなった。そう言えば妻とこんな話をするのは久しぶりだった。
「会社はどうするの」
 思い出したように時子が聞いた。
「月曜から行くよ」
「そう。私は来週から少し帰宅が遅くなる。たぶん午後八時過ぎになるわ。期末だから忙しくなるの」
「そうか。陽花には言ってあるの?」
「陽花には先に夕飯を食べてって言ったんだけど。先に勉強するから夕飯は待っているって。一緒に作って食べられるから本当はその方が助かるんだけど」
 時子は後方に振り向くと、沸いたヤカンのお湯を確かめガス栓を閉めた。
「明日はお袋の様子を見てくるから」
 昭雄は食事を終えるとテーブル脇に置いたスマホの画面を軽く押した。
「義母さんの所に行けなくて悪いわね。明日は出勤だから」
 時子はカード会社の仕事で月に何度かは日曜出勤していた。
「気にしなくていいよ。また、次の機会には頼むよ。陽花はどうするかな」
 昭雄がスマホの画面を確認しながらテーブルを立った。
「陽花は明日、友達に会うらしいから」
「そうか。分かった。帰りは夕方だね」
 昭雄が聞いた。
「そう、私は6時頃になるから。夕飯は作るから。陽花は午後から出かけるらしいわ」
 時子が昭雄の茶碗を洗いながら答えた。昭雄は台所を出て突き当り左側のリビングに入った。スマホには戸田からメールが届いている。『バンドやりたくなったらいつでも連絡ください。待っています』とだけ書かれていた。返事を出そうか迷ったが、そのまま昭雄はスマホのカバーを閉じた。
 リビングの片隅には最近に時子が始めたアロマテラピーのハーブの香りが微かに漂っていた。昭雄は香水が好きだった。いつも自分で香水をつけている。今もその習慣は変わらない。時子も女性として香水は離さなかったが、部屋でアロマテラピーを始めたのは父親と妹が他界してからだった。
 翌日の昼過ぎ、昭雄は母親のさなえが入居している国立の介護施設「サンフラワー」に出かけた。さなえは雄一郎の葬儀には参列したが死因は病死だと伝えていた。しかしまだ、優子の死については話していなかった。生前に施設を頻繁に訪れていた娘のことを、さなえは気にしないわけはない。しかし、この状況下で優子が他界したことを話すことはできないでいた。何とか嘘をつかなければいけないと昭雄は思う。いずれは分かることだが、1か月でも2か月でも優子の死については、話さないでいたいと考えていた。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA