「海に沈む空のように」第7回 たちはだかる家族の溝

 志賀昭雄は国立駅からタクシーに乗り、ワンメーター分のタクシー料金を支払うと母親のさなえが入居している施設「サンフラワー」の入り口の前に立った。
「志賀と申します。いつもお世話になっております。母親のさなえに面会にうかがいました」
 昭雄はインターホーン越しに言った。
「はーい、お待ちください」
 施設の中から歯切れのよい女性の声が響いた。しばらくすると入り口のドアのカギが開く音がした。昭雄は左右に庭木の生える中道を歩いた。玄関の扉を開けると中年の女性が奥から出てきた。
「志賀です。いつもお世話になります」
 昭雄は頭を下げた。
「はい。どうぞ、どうぞ、こちらです」
 女性は昭雄を奥の部屋に案内した。一階突き当りの左側の部屋がさなえの部屋だった。
「志賀さん、息子さんですよ」
 入り口で女性が声を大きくした。部屋の奥のテーブルの横の椅子にさなえは座っている。
「ありがとうございます」
 昭雄は女性に土産を渡し頭を下げた。
「ありがとうございます。それじゃ、失礼します」
 女性は土産を受け取ると、笑顔で入り口のドアを閉めた。さなえは少し驚いた表情を見せたが、訪問者が自分の息子だと理解すると笑顔を見せた。
「この前はお疲れさんでした。調子はどう、変わりない?」
 昭雄は土産をテーブルの上に置いた。
 さなえは椅子からゆっくりと立ち上がった。
「いいよ、いいよ、気にしないで。自分は座布団でいいから」昭雄が隅の座布団を取ろうとする。
「ここに座りなさい」
 さなえは椅子から立ち上がるとゆっくりと近くのベッドに腰かけた。認知症とはいえ初期の段階だから、まだ、回復する可能性は十分にある。とにかく、なるべく人とのコミュニケーションが大事なのだ。
「この前は疲れたでしょう。大勢の人が参列したから」
 昭雄がお茶を入れた。
「大丈夫だよ。あれくらい。でも以外と早かったね。父さん」
 さなえがふと寂しげな表情を見せた。
「急だったからね。本当に人の運命なんて分からないもんだよ」
 昭雄がさなえにお茶を差し出した。
「少し熱いかも知れないから。『おざき』の最中を持ってきたから。もう一箱は冷蔵庫に入れておくよ」
 昭雄が最中の入った箱を冷蔵庫に入れる。
 最中はさなえの好物だった。
「施設の皆さんには持ってきたの?」
「大丈夫だよ、さっき渡したから」
 昭雄がさなえの顔を見た。
「お墓は買ったから。高尾に墓を建てるよ。まだ、ちょっと時間がかかるけど。たぶん、四月ごろには納骨できるさ」
 昭雄がお茶を飲んだ。さなえは最中の入った箱の包み紙を見ながら微笑んだ。
 その日、昭雄は夕方まで施設でさなえと話し帰宅した。翌日は午前五時に起床し、朝食を済ませスーツに着替えると新聞に目を通した。新聞を広げたのは久しぶりのことだった。仕事柄、経済情報はなるべくチェックしている。就職情報誌の広告営業をしている昭雄の取引先で話題になるのは、直接的な仕事の話以外には、新聞やスマホで得る経済情報が主だった。
 昭雄は「ヒューネクスト」本社の営業部に所属し課長職のポストに就いているが、この一か月で父親と妹が死亡するという状況に遭遇することで、自分の所属する営業部ではなく総務部に呼ばれていた。総務部には午前九時過ぎに入る予定だった。
 営業部には午前7時半には部長の田中昇が出社する。総務にいく前に昭雄は田中と話したかった。本社の入り口で警備に軽く頭を下げると昭雄はそのまま中央のエレベーターのボタンを押した。営業部は本社の八階にあった。8階のフロアで降りるとそのまま営業部に向かう。部長席では既に田中が椅子に座ってパソコン画面を見ている。
「おはようございます」
 昭雄は少し声を大きくした。田中が立ち上がった。
「おはよう。いろいろ大変だったな」
 田中がねぎらいの言葉をかけた。
「ご迷惑をおかけしました。すみません」
「座れよ」
 田中がデスク隣のソファーを指した。
「仕事は今井が代行してくれているから心配しなくていい」今井陽一は係長だ。
「とにかく落ち着くまで、仕事のことは忘れろ」
「すみません。いろいろ」
「人生は本当に何があるか分からんからな。辛い時期もあるが、諦めんことだよ。何があってもね」
「ありがとうございます」
「スタッフには理由は説明しなくていいから。いつも通り仕事に戻ってくれ」
「はい。いろいろすみません」
 昭雄は田中に頭を下げた。
「9時から総務に呼ばれていますので」
「総務?・・・」
 田中は少し意外な表情を見せた。
「1時間程で戻れると思いますが」
「そうか、分かった」
 田中はソファーから立ち上がった。
「しばらく外に出てきます」
 昭雄は席の傍らのカバンを手にすると営業部を出た。
 そのままエレベーターで一階に降り外に出た。表通りを左に折れ、さらに左に曲がり一つ目の信号を右に渡った先のコーヒーショップに入った。ここで昭雄は以前から出勤する前にコーヒーを飲んでいた。
 午前8時過ぎ、店内は混んでいた。昭雄はいつも7時30分過ぎには入っていたから、十分に席は空いていたが、この時間は空いている席を探す方がむずかしい。昭雄は店内を見渡し奥に一つだけ席が空いているのを見つけた。久しぶりに早朝から電車に乗り出社したことで疲労を覚えていた。ここしばらくの疲れが出たのかも知れない。少し店内のせわしさに眩暈を感じた。
 奥の狭いスペースの椅子に座りスマホでメールを確認しコーヒーを飲んだ。時子からメールが届いていた。朝、家を出る時は、時子も陽花もまだ眠っていた。いや、時子は起きていたのかも知れないがキッチンに立つことはなかった。
 朝食はテーブルの上に時子が用意してあった朝食を一人で食べたのだ。時子は昨日、予定より帰宅が遅れた。午後9時過ぎになったのだ。昭雄は時子と話すことなく先に寝てしまったのだった。
気が付けばこんな状況は珍しくなかった。父親が死ぬ前も時折、時子は日曜日に出勤することがあった。そして、決まって帰宅するのは午後9時を過ぎたあたりだった。また日曜日は昭雄もバンド活動で留守にする日が増えていた。
 いつのまにか二人は会話する機会が少なくなっていた。陽花のことで話し合うことはあったが、夜の夫婦生活もなく小さな溝ができつつあった。バンド活動に夢中で日曜日に時子や陽花に家庭サービスできないことは良くないと感じていたが、たまにどこかに誘っても時子の方も仕事や用事があることが増えていた。そんな矢先に起こった不幸は、二人の間に決定的な溝を作ってしまったのだ。

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