「海に沈む空のように」第8回 家族の殺人事件

 柳川浩二が『週刊真実』の記者である時田治夫に連絡したのは、キャバクラ「キャットウォーク」で先輩の金井徹と飲んだ帰りに、翻訳家の志賀優子が死亡したマンション近くで会った日から4週間が経過した頃だった。
 時田は優子の死が、自殺したほぼ父親・雄一郎の犯行に違いないと書いていた。時田と会った時、浩二は酒を飲んでおり酔っていたこともあって、その時にその場所で何が起こったのか、どんな深刻な事態が発生していたのか把握できないでいた。
 しかし、その後に発売された『週刊真実』で時田が書いた記事を読んで事件の真相を知るに至ったのだ。記事では翻訳家の志賀優子は父親の雄一郎に殺害され、その闇は深いことが書かれていた。
 なぜ、父親が実の娘を殺害しなければいけなかったのか、そこには娘の父に対する、ある疑念が発端となっているという。浩二は記事を読みながら、自分の父親である亨が祖母の康子を殺害したことを思い出していた。そして、その父は今、消息不明のままだ。
 浩二からの連絡を受けた時田は約束の場所に30分遅れで、午後6時半に到着した。時田はフリーの記者だ。どこにネタがころがっているか分からない。だから、どんな人ともなるべく会うという信状は変えない。
「どうも、申し訳ない、遅れちゃって」
 時田は荻窪のコーヒーショップに待たせていた浩二に詫びた。浩二は大きな出版社で仕事をしている記者の時田が、急な仕事で会ってくれないのではないかと思っていたから、遅れたことなど何の問題にも感じていなかった。むしろ、来てくれたことに感謝していた。
「お忙しいところ、わざわざすみません」
 浩二は礼儀正しくお礼を言った。
「『週刊真実』の記事、読みました。驚きました」
 時田が座るなり浩二が口にした。
「そう、ありがとう」
 時田がコーヒーを注文した。
「ちょっと珍しい事件だから・・・・。若い夫婦なんかでは子供を殺害してしまうケースは最近では増えているから・・・。でもこの前の親子は若くはないし、これは何かあるなって」
「そうですか」
「警察もすぐにその後で自殺した父親が怪しいと睨んでいた。司法解剖で雄一郎の爪から優子さんの身体の肉片の血痕が検出されたことが決定的な証拠になった・・・」
「でも、むごいですね」
「家族同士の殺害事件は意外と多いんだ。愛憎というけれど愛し合うけれども一歩、間違えれば憎み殺し合うんだね」
「家族で喧嘩も多いっすね」
「そうだね、それが行きつくと殺し合ってしまう。家族って一歩間違えれば・・・・ね」
 時田がコーヒーを飲んだ。
「でも、娘さんが父親を責めていたなんて」
 時田は裁判官だった雄一郎について、ある時期から優子が父親の裁判には冤罪事件があるのではないかと詰め寄っていたと書いていた。そのことが雄一郎を激怒させて、優子殺害に至ったことを記事にまとめたのだ。時田は優子が翻訳家という職業を見逃さなかった。優子の翻訳には米国のさまざまな事件をレポートしたノンフィクションの著作が数冊あった。この翻訳の過程で雄一郎の仕事に冤罪を噂されるケースがあることを知ったのではないかと推測していた。
 1983年に千葉県で当時7歳の少女・河合京子ちゃんと同級生の原田まいちゃんが何者かに殺害された。千葉県警は半年後に学校事務の本田二郎、当時65歳を犯人として逮捕した。その過程で警察サイドのDNA鑑定に不備があることを知りながらも、雄一郎は裁判で本田に死刑判決を下し、その後に死刑は執行されたが、この事件が冤罪事件ではないかとの噂が流れたのだ。
 時田は別の冤罪事件を取材している過程で、偶然にこの事件の記事に遭遇した。さらに取材を進めると優子が生前に千葉県の幼女殺害事件のことに関して、出版社の知り合いを通して、当時に取材した記者に話を聞いていたということを確認したのだった。
「なかなか裁判官というものは、検察に異論を唱えることができない。検察や警察を否定することになるからね。だから、冤罪だと分かっても裁判を覆すにはよほどの勇気がいるんだ」
「そうですか・・・」
 浩二は時田の話を真剣に聞いた。
「自分の父親も母親を殺したんです」
 浩二が時田の顔を見た。
「そう・・・・・君にとってはおばあちゃんか」
 時田は落ち着いて目を閉じた。
「おばあちゃんは認知症だったんですけど、家族が介護に疲れてしまって」
 浩二が続けた。
「最近、増えているね・・本当に大変な世の中になったよ。それは父さんだけが悪いんじゃないから」
 時田は浩二を慰めた。
「自分も責める気持はなかったんだけど。父が刑務所から出てきて、どこかに行ってしまったんです」
「どれ位になるの?お父さんがいなくなって」
「そうですね・・・もう1年が過ぎました」
 浩二はしばらく考えてから答えた。
「もちろん警察には捜索願いを届けているよね」
「ええ、でも最近は何の連絡もありません」
 浩二がコーヒーを口にする。時田が週刊誌の記者だと知り、すがる思いで連絡してきたのだろうか。
「会いたいよね」
 時田はありきたりのことを言った。
「会いたい・・・っていうか。どうして家を出ちゃったんだろうって。おばあちゃんを殺したことは決して許されないことだと思いますけど、状況が状況だったから。自分の母さんも親父の気持ちを分かっていて」
「やりきれなかったんだね・・・」
「そうだと思います。親父が刑務所に入って出所してもまた、いなくなって家庭が大変になっちゃって。なんて言うんですかね。自分なんか清掃の仕事やっているからよく分かるんですけど。人って勝手だから」
「浩二君は清掃の仕事をやっているの」
 時田がコーヒーを飲み干した。
「ええ。今はメインはガラスクリーニングなんですけど。自分なんかまだ若いから、いわゆる高層オフィスビルの清掃は少ないんですが」
「ガラスクリーニングか、あれは大変だろうね」
 時田が喫茶店の窓を見た。
「たまに都内で高層ビルのガラスの清掃をしている人を見かけるけど本当に凄いって、いつも感心するよ」
 時田が笑顔を見せた。
「最近は風が強くなる日も多いから要注意です」
「そうだね。これだけ風が強くなる日が増えると危険だね。地上を歩いていても飛ばされそうになるよ」
「本当っすよね」
「よくあんなことできるなって思うよ。すいすい高層ビルの高い場所で、少し太いロープだけで右に左に移動してさ。座る簡易式の椅子なんかもシンプルだし」
「時田さん、よく知っていますね」
 浩二は時田が興味深く話すのをうれしく思った。
「清掃を何度か取材しようかと考えたことがあってね」
「そうですか」
「以前に肉体労働者に従事する人たちをね。取材する企画があったんだ。結局、ガラス清掃は取材しなかったけど」
 時田がメニューに目を通す。
「何か食べる?」
 浩二の前にメニューを差し出した。
「たいした食事はないみたいだけど。スパゲティーや軽食程度ならあるようだね」
「ナポリタン食べようかな」
 時田がナポリタンとコーヒーを追加注文した。

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