「海に沈む空のように」第10 回 昭雄の左遷、時子の戸惑い  

 志賀昭雄は自宅に戻るとスーツをキッチンのテーブル椅子にかけ、そのまま水道の栓をひねり、いつも自分が使うコップに水を注いだ。コップ一杯の水を一気に水を飲み干すと、立て続けに水を喉に流し込んでいく。次に大きく深呼吸すると水道の栓を閉めた。
 窓から庭先の桜の木が見える。もうじき花を咲かせそうな気配の桜も昭雄にはたった一週間ほどで散ってしまう儚い短い命の花が自分の心情と重なって見えた。
父と妹が死んで1か月が過ぎた。久しぶりに出社した昭雄を待っていたのは転勤という、今までに考えたこともない現実だった。
 昭雄が大学を卒業後に就職したヒューネクストは80年代に急速に成長した就職情報会社だった。急速に成長した会社はグループの不動産会社の未公開株の政界への譲渡疑惑問題発覚を契機に一時期に低迷したが、その後、10年をかけ信頼と業績を回復し今日の業界トップの座を強固にしていた。
 昭雄はスキャンダル発覚後に会社が低迷していた時期も辞めることなく仕事を継続してきた。気がつけば就職して20年近く過ぎていた。その間に結婚し娘にも恵まれ、一般的ではあるが幸せな家庭を気づいてきた。いつのまにか仕事も家族も昭雄にとってはかけがえのない存在になっていた。
 そしてもう一つ、昭雄には自慢できるものがあった。今や趣味となってしまったが、昭雄には本来、ミュージシャンになりたいという学生時代から抱いてきた夢があったのだ。父親を裁判官に持つ息子は裁判官の道など選ばず、音楽関係の仕事に就きたいと考えていたのだ。成功や失敗が明確に分かりやすいスポーツの世界などは3歳くらいから父や母に勧め教えられた競技をやることで早期に成功する人材が多い。
 これらは両親の言うことを素直に聞くことで厳しい世界でも成功を収めるケースが多いことを示している。しかし、昭雄は父親とは正反対の道を選び学生時代からバンド活動をしてきた。音楽の世界もスポーツ同様に厳しい世界だから、そう簡単にプロとして成功できない。昭雄はプロになるという夢はかなわなかったが、学生時代に知りあった仲間たちとバンドを組み活動してきた。皆、昭雄同様に製造関係や情報通信会社などの大手企業に就職し仕事を続けながら週末は自分たちの好きな音楽活動に没頭してきた。
 日本には昭雄と同じような人が多い。都内だけでも昭雄たちと同様のアマチュアバンドは多く、バンド同士が集まって週末にライブなどを開いたり、施設や老人ホームを廻ってコンサートを開いたりしてきたのだ。
そのバンド活動もできなくなってしまった。全てが崩れていく。昭雄は椅子に座ると溜息をついた。
 陽花も時子もいない。自分一人だけだ。午後3時過ぎ、いつもならまだ会社に出て働いている。しかし、今日、昭雄は朝、営業部に顔を出したものの、そのまま総務に行き部長の田上茂から異動の話を聞かされた。このまま何も会社側から話がないとは思わなかったが、まさか異動の話をされるとは予想していなかった。
 人生は楽しんだ方がいい、だから音楽はやるが、一方でいつ何があるか分からないのが人生だから、あらゆるリスクを想定して行動していかなければいけないとも思っていた。それは父親が悪を裁く裁判官だったということもある。しかし、その父親が悲惨な最期を遂げた。
 昭雄は寝室に入ると時子が数日前に買ってきた週刊誌を手にした。時子が週刊誌など買うことなど見たことがなかった。昭雄自身もない。スマホや携帯電話が急速に社会に浸透して以降、雑誌は買わなくなっていた。時子が何を読んでいるのか想像できた。
 最近に我が家で発生した事件が記事にされていることなど気にしてもしょうがないと考えていた。しかし、昭雄が目にしたタイトルは自分の目を疑うものだった。『娘は父の冤罪事件を疑った』当初はタイトルの意味がわからなかった。意味を理解するために昭雄は週刊誌を開いた。昭雄は自分の心臓の鼓動が高まるのをとめることができないでいた。鼓動がどんどん早まっていく。深呼吸しても鼓動の早さは変わらない。読み終わった時、昭雄はベッドに沈み込んだ。いつのまにか気を失うように寝入っていたのだ。昭雄が起きたのは夕方の五時過ぎだった。夕闇が寝室にゆっくりと入りこもうとしていた。
 スマホが鳴った。見覚えのある名前が表示されている。
「はい」
「アキちゃんか、俺だ」
バンド仲間の戸田の声だった。
「今度、ライブを見にこないか」
「ライブ?・・・」
「そう、渋谷でゲストが来るから」
「ゲスト・・・」
 昭雄の声が続かない。
「町村ゆきって歌手を知っているかい」
 戸田が聞いた。
「町村ゆき・・・・?聞いたことあるよ」
 昭雄が声を少し高くした。
「知っているよね。やっぱ。その町村ゆきが俺らのライブの日に遊びに来るんだ」
 昭雄は町村ゆきの名前を聞いたことがあった。確か町村の曲を聴いたのはまだ自分が高校時代の頃だった。静かでしかし、その唄は心に沁みる名曲だった。デビューアルバムの良さは衝撃的だったが、数年が経過し彼女は当時、ミリオンセラーを記録した高井義之のアルバム「冬の息吹」を編曲を担当していた田中康彦と結婚して以降は表舞台から姿を消していた。
 昭雄もいつのまにか町村の曲は聴かなくなっていた。その町村が自分の仲間のライブに遊びに来るという。町村は去年、久しぶりにアルバムを発売し、今年は全国の小ホールでライブを開催しているらしい。昭雄はスマホで町村のホームページを検索した。夏前までの全国で開くライブ会場が記載されていた。昭雄は考えさせてほしいと答え電話を切った。
「ただいま、もう帰っていたの?」
 時子が声をかけてきた。
「ああ、今日は早かったよ」
「どうだった会社?」
 時子が心配した様子で聞いた。
 昭雄は黙ったままだ。
「あんまり芳しくない?」
「そうだね。転勤らしい」
「転勤・・・?」
 時子は驚いた様子を見せたが、それ以上は言葉を発せずに隣の部屋に入った。
「どうするか・・・だ」
 昭雄は次の言葉を続けなかった。
「どうするって・・・」
 普段着に着替えた時子が襖を開けた。
「辞めるか・・・転勤に従うか」
「転勤ってどこに行くの」
「福井・・・・」
「フクイ・・・・?九州・・・」
「いや九州は福岡、福井は北陸だよ。石川の隣・・・」
 昭雄も初めて転勤の場所を聞いた時は、その県がどこにあるのか頭には浮かばなかった。北陸新幹線開通で石川や富山は注目されたが、福井はまだ北陸新幹線が開通されていなかった。
「会社を辞めてもいいんだけど」
 昭雄がぽつりと言う。
「辞めてどうするの?」
 時子がキッチンの方のドアを開けた。
「しばらくは就職活動になるけどね」
「いい仕事あるかしら」
 時子が立ったまま言う。
「どうかな、今よりは給料は下がると思うけど」
「今のままがいいんじゃないかしら、馘というわけじゃないんだから。転勤になることなんて他の会社じゃ結構、あることだし」
「単身赴任だからね・・・・」
「しょうがないわよ。福井ってどんな所かしらないけど、そんなに遠い所じゃないでしょう」
「東京から列車で5時間位かな」
「5時間なら近い方よ、行き来は負担にはならない方じゃないかしら」
「まあね・・・・」
「辞めないで、福井に行った方がいいと思うわ。陽花も離れて暮らすのは仕方ないって言うと思うわ。大丈夫よ」
「そうか・・・それならいいんだけど」
「私たちの方は心配しないでいいわよ」
 時子は笑顔を見せるとキッチンに向かった。
「地方で生活なんかしたことないからなあ」
 昭雄が独り言のように言った。
 時子の返事はない。
「どんな所なんだろうな、福井って」
「石川や富山なんかの北陸は海がきれいな所だって、以前に聞いたことがあるわ」
 キッチンから時子が言う。
「海がきれいな所・・・・か」
「東京からはあまり行く人はいないけど、大阪や名古屋あたりからは海水浴に行く人は多いんじゃないかしら」
「じゃあ、夏なんかはいいわね」
 昭雄の声が幾分、高くなった。
「そうね。結構、いいかも」
 時子の声は何か他人ごとのようにも聞こえる。
「陽花も喜ぶかなあ・・・」
「さあ、どうだろう。あの子は、そうだ。連絡しなきゃ」
 時子が思い出したようにテーブル上の携帯電話を手にした。
「陽ちゃん?母さんだけど」
「・・・・・・」
「はい、わかったわ。6時過ぎね。待ってるからね」
「陽花かい?」
 昭雄が聞いた。
「そう。今日、塾の帰りが遅くなるかも知れないって言っていたから」
「遅くなるの?」
「たぶん。仕様がないわね」
「物騒な世の中だから、陽花にも何か持たせた方がいいよ」
「携帯電話は持っているから」
 時子が腕組みしながら答えた。
「今、GPSが発達したからね、どこにいるか分かる便利な物を持たせる人が増えているようだよ。携帯電話は取られたらおしまいだけど。GPS機能が付いた装置を別の所に持参していれば、何かあった時でも居場所が分かる。この装置を陽花にも持たせた方がいいよ」
 昭雄が真剣な表情で言った。
「そうね。それがいいわね。私も仕事で家にいないことが多いし。あなたが転勤になったら、この家も主人がいないって分かると、何をされるか分からないから」
「警備会社と契約した方がいいね。この家も」
「高いんでしょう契約料金・・・・でも何かあったら、すぐに来てくれて実際に守ってくれるのかしら。
 時子が少し不安な表情を見せた。
「少し高いかも知れないけど。契約した方がいいよ。家に男がいなくなるっていうのは、あまりいいことじゃないから」
 昭雄が意見を通した。
「そうね。じゃあ、あなたがいる間に契約してよ、陽花の件や家のこと、お願いするわ」
 時子がお茶を出した。
「明日にでも電話してみるよ。セキュリティー会社に」
「頼んだわ。そういうのあまり分からないから。男の人がいいのよ。とにかく、そういう関係は」
 時子が急ぐように言った。
「庭の剪定なんかも、業者に頼むのを忘れないようにしないとね」
 昭雄が思い出したように言う。
「いつも来てくれる職人さん、名前なんていったっけ。確か。高野さん、元気のいいオジサン。高野さんだから庭の剪定は。電話番号は・・・・えーっと」
 少し大きい文字昭雄はスマホで確認しながら、こうして時子と話すのも久しぶりだと感じた。

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