「海に沈む空のように」第11回 十月・福井 秋の東尋坊で出会った男  

 暑い夏がもうじき終わろうとしている。十月初旬、暦の上では既に夏は終わっているが、この地はまだ暑い。
 志賀昭雄が住み慣れた東京から福井に移り半年が経過しようとしていた。福井は冬は雪が降ると聞いていた。日本海に面した北陸の一県だから東京と比較しても夏も涼しいだろうと思っていた。しかし、予想は大幅に狂い暑い夏が県内に停滞した。最高気温も三十五度を越える日が多かった。気象庁が発表する気温の最高値は日陰の涼しい場所の気温だから、仮に三十五度と発表されても、実際に感じる気温は四十度近い日が多いのだ。東京と比較しても平均三度は暑かった。昭雄は部屋の窓を開け扇風機をオンにした。朝の五時過ぎとはいえ部屋には昨夜の暑さが残っている。
 窓の外を眺めると遠くに市内を横断する足羽川が流れている。社宅ではなく二階建てのハイツの六畳二間に台所と風呂、トイレ付きの部屋を借りた。部屋は二階だから眺めは悪くない。駅前からタクシーで十分の距離だった。家族が遊びに来て泊まるには便利な距離だ。部屋は築三年が経過しているがまだ、新しさを感じることができる。家賃は月五万円弱だった。駐車料金の一万円を入れても東京に比べれば安い。半年前に引っ越してきたばかりの頃は、この部屋から徒歩でも二十分とかからない川に桜が咲き乱れた。こんな所で花見が楽しめるとは予想していなかった。川沿いには防波堤が作られ、年々、増える降水量にも対処していた。もう、日本ではどこにいても地震や水害のことを考えずにはいられない。
 東京では江戸川区がゼロメートル地帯と呼ばれる地域で荒川が氾濫した場合のことを都民は考えずにはいられないが、福井でも降水量が増えているという状況は変わらない。近くを流れる足羽川は東京湾に流れる江戸川とは比較して大きくはないが、福井県内では大きな方で用心にこしたことはないのだ。昭雄は半年前、この川に毎週のように来ては散歩していた。時折、襲う重い感情を払拭したいという気持ちがそうさせたのだ。妻の時子が娘の陽花を連れて、福井に来た五月の連休の頃には桜の花は散っていたが、木々はまださわやかな風を吹かせていた。そんな木々の下で時子も陽花も笑顔を見せていた。
 昭雄の微かな記憶が蘇る。五月の連休は母親のさなえが入居している施設に見舞うため、連休後半は上京する妻らと共に昭雄も東京の実家に一泊したのだった。以降、時子と会話したのはいつの頃だろうか。いつのまにかお互いが必要事を確認するのはメールのみになった。時子もカード会社の仕事が忙しくメールの方が助かるというのだ。陽花とは五月の連休以来、会話していない。こうして家族は崩れていくのだろうか。昭雄はふと、そんなことを思う。あまりにも衝撃的な父の死と妹の死・・・。二人の死は昭雄の人生をも抹殺しようとしている。人生は何が起こるか分からない。それまで幸せだった家族が一瞬にして不幸へと転落してしまう。大きな震災のように全ては崩れてしまう。
 ヒューネクスト福井支社でも昭雄は営業部に配属になった。この県で就職情報誌の広告営業にかかわっている。福井駅近くのオフィスには三十人ほどの営業スタッフが朝早くから夜遅くまで仕事をしている。他の部署の従業員を含めても六十人ほどの小世帯だ。中小企業に転勤になったという感覚だった。昭雄がなぜ、福井に転勤になったかは部長の小林明彦も聞かなかった。福井支社は九割が地元の人材で構成されていたから、東京から来た昭雄の存在は不自然ではあったが、他の社員も誰一人として昭雄の転勤の理由を聞いてくる者はいなかった。
 昭雄は軽い朝食を食べ終えると、服を着替え部屋を出た。ハイツ前に止めてあるアコードのドアを開けた。クーラーをつけて外に出ると車全体を眺めた。五分後に車の中に入りドアを閉めるとギアを入れた。車内のラジオからは女性がパーソナリティーの音楽番組が流れている。音楽はいつ聞いてもいいと昭雄は思う。この気持ちは今も変わらない。どんなに自分の生活状況が変わっても音楽だけは自分を裏切らないと感じていた。音楽が自分を生かしてきた、そう昭雄は今も自分に言い聞かせる。バンド活動はできなくなったが、福井のアパートにも携帯ギターのジャムステックを使える環境は整えている。
 ラジオから聞こえてくる曲は、聞いたことのあるミスターのデビュー曲だった。東京のバンド仲間と何度も何度もコピーして演奏してきた曲でもある。昭雄はいつのまにか曲を口ずさんでいた。
 昭雄の運転するアコードは北陸自動車道に福井インターから入り、金津インターで降りた。十五分ほどで海沿いに出た。この海に来るのも五度目だ。海など見たのはいくつの頃だったろうか。今年の六月に初めてこの海に来た。斜面から眺める急降下の断崖に打ち寄せる波に吸い込まれそうになった。そのたびに大きく深呼吸した。鼓動が高まる中で何度も何度も深呼吸した。今日も風は強い。暑い気温を吹き飛ばしてしまう風だ。土曜日の午前八時、この海には人はいない。昭雄一人が絶壁の先端に立ちすくむ。大きな声を出す。誰にも聞こえない叫びだ。二度、三度と叫び続ける。
「気持ちいいですか」
「・・・・・」
 昭雄の背後で声が聞こえた。
「え・・・?」
「大きな声を出すのは体にいいって聞いたことがありますわ」
 昭雄はふと後を振り向いた。中年の男が笑顔で立っていた。「ここはよう来ますか」
 男が遠くを見ながら聞いた。
「いえ、今日で二度目です」
 昭雄が答えた。
「ほうですか・・・いいとこでしょう」
「・・・・・」
「日本全国からきなはるんやわ」
「全国から・・・ですか」
「観光地やでの。ここは」
「ええ。自分もそれで知りました」
「どこから来なはったの?」
「東京です。もう半年が過ぎました」
「東京か・・・半年って、転勤かなんかですか」
「ええ。仕事で転勤になって」
「ほうか。転勤か。福井は初めてけの」
「ええ。そうです」
「何やっていなはるの?仕事」
「人材関係の仕事です」
「人材・・・・?」
「就職情報なんか発行しているんですけど」
「ああ、就職関係か。分かる、分かる」
 男は頷いた。
「福井は景気はあんまりようないでしょう」
「どうでしょう。まだ、よくわかんないですけど。あまりよくないってことは聞きます」
「東京と比べたらあかんけどな。家族はどうしてるの」
「ここには単身で来ています」
「ほうか。さみしいな。一人は。でも東京やったら五時間あれば行けるしな」
「ええ。時間的には問題ないですけど」
「時間的にはいつでも行ったり来たりできる範囲や。たまに奥さんとかきなはるんやろ」
「五月の連休に来ました」
「おたくも、よく東京に行ったりするんでしょう」
「いや、それほど。五月に母親に会いに行ったくらいですよ」「ほうか・・・・」
 男は頷いた。
「ま、この辺はいいとこやで。特にこれからは。もう風は冷たいやろが。もう秋やでえの。この東尋坊あたりで早朝歩いていると寒いって感じることもありますわ」
「部屋にいたら、まだ暑いですけど。確かにここは別手地ですね」
「ほやの。夏は暑いけど。さすがにもう十月やから。ここらは朝や夕方には寒いって感じることもあるわ」
 男は遠くに視線をやった。青い海が無限に広がっている。
「ここはなんで知ったの?」
「インターネットで福井の観光地を調べたら出ていました」
「今はインターネットで何でもすぐに出てくるなあ。ここは。いいとこでしょう?」
 男は笑顔を見せた。
「ええ。東京にはない海ですね。日本海は太平洋とは違う」
 昭雄は深呼吸した。

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