「海に沈む空のように」第12回 昭雄を襲う重い感情

「もう慣れましたか」
「・・・・・・?」
「福井の生活には慣れましたか?」
 繰り返しながら男が昭雄の顔を見た。
「慣れたっていうか、どうですかね。この年まで東京を出たことがなかったから」
「地方の生活は初めてですか」
 男は昭雄の反応に少し意外そうな顔を見せた。
「ええ。気が付いたら東京で生まれて以来、今日まで東京を出たことがなかったです」
「おいくつですか」
「今年で四十二歳になりました」
「ほう。まだ若いねえ。いいね若くて」
「いや、どうでしょう」
 昭雄は遠くの海を眺めたままだ。
「若いっていうのはいいですよ。もう自分は六十七やから」
「まだ、若いですよ」
「ほうやね。これからは高齢化社会になって八十歳になっても働いている人が増えるって予想されたりしているくらいやから」
「日本はどうなるんでしょうね。このままいくと五十年後には人口が九千万とか八千万人とかいわれているけど。総人口一億二千万人時代と比較したら、本当に少ない・・・・」
「人口が減るのはいい傾向ではないらしいなあ」
「何か日本の高度成長を支えてきた主要産業もどんどん外資に買収されていくばかりで、もう経済大国を誇っていた時代は過去の栄光になってしまいました」
「福井はメガネ関係がいいんや。福井は住みやすいですか」
 男が話を変えた。
「まだ住んで半年だから・・・」
「冬は雪が降るで・・・最近は本当によお降るで、年明けは注意した方がいいですよ。どこに住んでいるの?」
「福井市内です。勤め先まで車でゆっくり走って十五分位ですよ」
「ほう。福井市内なら、まだ、いいかも知らんけど。ほれでも雪はまた、最近に降るとどんどん増えますから気を付けないといけませんわ」
 午前九時過ぎ、昭雄の立つ東尋坊の岬に波が揺らいでいる。
「この海もいいんやけど。越前海岸の方は行きましたか」
「越前海岸はまだです。行きたいと思っていますけど」
「私は子供の頃、よう行きました。夏には海に潜ってウニやタコをとって、そのまま食べるんですわ。これがうまいんや」
「そのまま食べるんですか。新鮮ですね」
 昭雄が男の方を向いた。
「なんていうんかの。海に浮かんだまま空を見上げるんやけど。本当に海も空も青い」
「いいですね」
「もう、楽しみでね。家族や親戚と大勢で行って。海岸に大きなテントを張ってね。父親も母親も兄弟もいとこも、その家族もみんな一緒にね。本当に楽しかった。朝、早くから夕方までずっと海で遊ぶんですわ。母親の作ってくれたおにぎりと、とれたての魚も食べるんですわ。もう最高やね」
「家族みんなで海水浴ですか・・・・いいですね」
 昭雄は男の幼い頃の話を聞きながら自分の小さい頃を思い出した。自分は海に行っただろうか。家族で海水浴なんか行っただろうか。確かに楽しかった思い出はあった。昭雄が小学生の頃、父親の雄一郎と母親のさなえは何度か妹の優子と自分を都内の遊園地まで連れていってくれた。後楽園には野球観戦に連れていってくれたりもした。昭雄にも幼い頃の楽しかった思い出は確かにあったのだ。結婚してからは、妻の時子と娘の陽花に自分は何をしてきただろうか。自分も陽花が小学生になる前まで休みの日は家族で遊園地に出かけた。しかし、陽花が小学校に入ると、気が付けばバンド活動に熱を入れている自分がいた。時子はそんな自分を許してくれていたのだ。
「そろそろ行きますか」
 男の声に昭雄が我に返った。
「え、ええ」
 すでに岩淵のあちこちで人が歩いている。
「この時間くらいになると結構、人も来はじめるんですわ」
 男がうれしそうに遠くを眺めた。
「今日はどこに行くんですか」
「特に決めていないんですけど」
「ほうですか。海なら越前海岸に行きなはったらいいですわ。ほや永平寺なんかは関心ありませんか」
 思い出したように男が言った。
「永平寺ですか・・・」
「ほやの。道元禅師が建てたお寺ですわ」
 男は観光案内をしているような口調で言った。
「道元ですか・・・・」
 昭雄は道元について全く知らないわけではなかった。
「ほやの。道元さんが福井に来た頃、まだこの福井は永平寺のようなお寺を建造するのに十分に恵まれた所やったんや。八百年後の日本や福井を予想して守護の意味も含めて作ったんやろうとも思っていますけど」
「確か禅の修行で有名なお寺ですよね」
「ほやの。今も観光客向けにもやっている筈や。時間がある時にでも行ってみなはったらいいですわ。あ、ほや、私の名刺を渡しておきますわ。何か相談でもあったら連絡ください。メールもやっているから」
 昭雄の受け取った名刺には、『NPO法人 東尋坊心の会 井田一郎』と記入されていた。
「よかったら名刺いただけませんか」
 井田の言葉に昭雄は一瞬、迷ったが、デーバックの中のバッグから名刺を取り出した。
「志賀といいます」
「ありがとう。ほな、じっくり楽しんでください」
 井田は手を振ると車の止めてある方に歩き出した。昭雄は井田と話しながら、いつのまにか朝から抱いていた重い感情が少し和らいだ気がした。この地が観光地とは別に自殺の場所としても有名だということはインターネットで調べて分かっていた。富士山麓の青木ヶ原樹海の迷路の複雑さとは裏腹に、断崖絶壁の急降下の海の底に人は呑み込まれてしまうのだろう。昭雄は初めにここに来た時にそんなことを感じた。このままジャンプしてしまえば、自分はこの世界から消えてしまう。その方が楽だと確かに思ったのだ。昭雄は井田の名刺を財布に入れるとゆっくりと自分の車の方に歩き出した。
 少し大きい文字その日、昭雄は車で北陸自動車道を約一時間、まっすぐ自宅に帰り昼食を済ませると眠気にまかせ横になった。土曜日は洗濯や掃除をしなければいけないのだが、今日のように掃除しないままに突然に東尋坊の海に出かけたくなる日は珍しくはなかった。何か重い感情が衝動のように昭雄を襲ってくるのだ。それは表現の仕様がなかった。

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