「海に沈む空のように」第13回  転勤で一家離散の危機に

 東京で生活している頃には日頃のあわただしい生活からか自分を省みる時間がなかったからかも知れない。妻の時子や娘の陽花の手前、疲れたところを見せるわけにはいかないという気持ちが無意識に働いていたのだろう。しかし、昭雄は父親と妹を同時期に亡くすという不幸に出会い、確実に疲弊していた。それは仕事を奪い、家族さえ崩壊の寸前まで追い込んでしまったのだ。いつのまにか時子とも陽花とも話す機会が少なくなっていた。五月の連休に福井に二人が来た時も、昭雄の住むハイツに二人は泊まることをしなかった。
 昭雄の住む部屋には来客用の畳間を用意しているが、時子は狭いからという理由から福井駅前のホテルに陽花と共に一泊したのだ。久しぶりに会っても昭雄の心はときめくことがなかった。それは時子も同じ心境だっただろう。昭雄が東京の母親に会いに行ったのも、時子たちとは別に一人でだった。家族の間に明らかに亀裂ができてしまったのだ。
 福井に来てからというもの、昭雄には東京に住んでいた頃には感じなった寂しさを強く感じるようになっていた。毎日の時間が長くなり、日々の生活に張りのようなものを感じることがなくなっていた。
 勤務先のヒューネクストの上司にあたる小林明彦にもたまに飲みに誘われるが、最近は断るようになっていた。東京では仕事が終わると金曜日はバンドの練習でスタジオに遅くまで入ることが多かったが、福井に来てからは金曜の夜は午後六時以降は暇になった。普通の家庭なら単身赴任の場合は、実家に帰宅するパターンが多いのだろうが、昭雄は東京の自宅に戻るということをしなかった。時子も帰ってきてほしいとは言わなかったのだ。このままの生活を続けていれば離婚は時間の問題だと昭雄は考えるようになっていた。会社を辞めることを選択しなかった昭雄は今、転勤を選んだことで家族を失おうとしている。
 そして、たまに自分を襲う憂鬱・・・・・。二人の身内が死んでしまうという急激なショック状態に、昭雄の身体は耐えられなかったのだ。こんなに簡単に自分は崩れてしまうのか・・・何度も昭雄は自分の身の回りに起こった出来事を受け入れるように努力した。辛い現実から逃げてはいけないと自分に言い聞かせ続けたのだ。しかし過酷な現実に昭雄は潰されかけている。
 昭雄は東尋坊からの帰りに市内の自宅近くのスーパーで買ってきた一週間分の食材をテーブルの上に置いた。牛乳やヨーグルトは冷蔵庫に入れ、タマネギやニンジンなどの野菜類は台所の隅の箱の中に収めた。平日の夜は自宅で食べることが増えている。
 翌日の日曜は一日中、家に籠っていた。特に何をするということもなくテレビを見て過ごした。休みの日はこうして何もせずに過ごすことが増えていた。いつのまにか東京の家族からも連絡が来ることが少なくなっている。昭雄も最近は時子に連絡することが極端に減っていた。自分たちはこのまま、離れ離れになってしまうのだろうか。昭雄はふとそんなことを考えたりした。夕方、五時を過ぎると昭雄はいつものようにビールを飲み始める。これもいつのまにか日課になった。
 東京にいた頃は自宅でギターの練習をしたりしていた。もう福井では音楽活動はしないだろう。そんなことを考えていた。でも昭雄はジャムステックプラスを荷物の中に入れていた。今、部屋の片隅にそれはある。ジャムステックプラスは小さなウクレレくらいの大きさの電気ギターでパソコンさえあれば、フォークやエレキなどさまざまな音を出すことができる。
 パソコンやインターネットの普及で今や音楽は一人ですべてを完成させてしまうことができる時代なのだ。すでに音楽家の中には自宅で一人で全ての曲を作曲してしまう人物もいる。昭雄はパソコンで作る音楽はよくないと思っているが、練習するにはジャムステックプラスはなくてはならない楽器だと認識している。ネットワーク環境さえ整備されていれば、スマホやパソコンに接続し演奏できるし、何よりも小さくて軽いのが便利だ。楽器はスタジオやコンサート会場に運ぶだけでも大変なのだ。だから日本でも本番でこの楽器を使用するミュージシャンは増えてくるだろうと昭雄は思う。
 缶ビールを二缶、飲み干した頃、昭雄は部屋の隅のジャムステックプラスに目をやった。この楽器は買って一年が過ぎたばかりだった。東京にいた頃、スタジオでは使っていたが本番では使用したことがなかった。もう、バンドからは脱退したからギターなど弾くことはないと思っていた。それでも昭雄はこの楽器を手放すことはできないでいた。家族とのコミュニケーションが希薄になっていく中でも、この楽器だけは手放せなかった。
 昭雄は久しぶりにジャムステックプラスを弾き始める。東京での最後のライブは一月第二週の土曜日だった。神奈川県の老人ホームで昭雄の所属するバンド「ライブスターズ」のコンサートが行われたのだ。
 この日は女性ボーカルの春山こずえが、八十年代にヒットしたグループであるハイクラスの名曲を八曲ほど唄った。昭雄はギターを弾いたが、自分もボーカルを担当した曲が一曲だけあった。ハイクラスの曲ではないが、演歌歌手の武井香の『月夜坂』を唄った。ライブスターズではJPOPの曲を演奏することが多いが老人ホームでは演歌調の曲を積極的に取り入れたりした。昭雄は福井で思い出の曲となった「月夜坂」を弾き始めた。
 翌日の月曜日、昭雄は午前六時過ぎに家を出た。仕事は基本的に午前九時の始業だが、七時前には出社していた。東京での勤務スタイルが習慣になっていた。昭雄はオフィスのある福井駅前のビルの駐車場に車を止めると中に入った。入口のホールを抜け、右側のエレベーターのボタンを押した。数十秒後に規則的な音を立てて空いたエレベーターの中に入ると五階のボタンを押した。しばらくして五階のフロアに出るとそのまま右側の通路を先に進む。
 オフィスの前の給湯室では清掃員がゴミの回収をしている。昭雄は軽く挨拶をした。
「いつも大変ですね」
「いえ、たいしたことないです。月曜は少しゴミは多いけど。もう部屋の中の清掃は終わっていますから」
 六十歳過ぎの痩せた清掃員は頭を下げた。東京に住んでいる頃は、清掃員と会うことがあっても挨拶などしなかった。むしろ、清掃のことなど気にしたことはなかった。しかし、福井に来てからはなぜか、朝、清掃員と会うと挨拶し声をかけている自分がいた。昭雄は福井に来て自炊する機会が増えたが、同時にゴミの出し方にも気を付けるようになった。一人暮らしなどしたことがなかったから、ゴミを出すことなどそう多くはなかったのだ。
 「ヒューネクスト福井支店」はこのビルの五階と六階にフロアを構えていた。昭雄は誰もいないオフィスで机に座るとコーヒーを飲んだ。九時からは打ち合わせがあるが、重要な案件がなければ十時には会社を出てしまう。昭雄はここでも営業を担当していたから、社内にはほとんどいることがなかった。帰社は夕方の五時頃になる。すでに同期では課長や役員もいたが、福井支社で昭雄は特にポストは与えられていなかったから、新人同様に求人広告の新規取引先を開拓するのが仕事になった。早く出社するのも、人より早く求人の出そうな会社の情報を探すためだった。
 四十歳を過ぎて仕事は新人扱いで、しかも福井という決して人口も大手企業も多くはない地方での営業だ。東京にいてもなかなか新規企業を開拓するのは容易ではなかったことを新人時代に昭雄は経験して知っていた。その新規開拓をまた、自分は担当することになったのだ。
 今回の転勤が何を意味しているのか昭雄にはわかっていたが、実際に福井に来てみると仕事の厳しさを痛感せざるを得ない状況となった。清掃員と話すようになったのも、そんな環境が自分を変えたのだと感じていた。唯一、助かったのは上司の小林が昭雄を親身に思い、求人のあてのある会社を数社紹介してくれたことだった。
 メガネフレームメーカーの「オバマメガネ」は以前に小林が担当していた市内にある会社だった。規模は大きくはないが中堅の会社で求人も定期的に行っている。昭雄は小林には本当に感謝した。この他にも大手コンピュータ機器の販売会社や信用金庫なども昭雄に引き継がせたのだ。小林は昭雄の東京での仕事振りを知っていた。有名私立の早谷大学を卒業後、ヒューネクストに入社後は営業部一本で働き順調に成績をあげ、課長就任直前にまで活躍した人物が、本人ではなく家族がおこした不幸で左遷されてしまうという現実に同じサラリーマンとして同情の念を抱かざるを得なかったのだ。ヒューネクストは比較的、従業員も若く平均年齢は三十半ばだ。五十代で関連会社に出向になる社員も多いから競争は激しい。

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