「海に沈む空のように」第14回 福井で昭雄が音楽活動を再開

 昭雄の身の回りに起こった出来事は、スキャンダルや不祥事を嫌う企業社会の当然の仕打ちでしかなかった。小林から見ればそんな昭雄は不憫で仕様がなかった。だから、単身赴任の昭雄を飲みに誘い、小林なりに精一杯に誠意を見せた。ほんの数年だけ小林が年上だったが、昭雄のキャリアは決して、福井支社の誰にも劣るものではなかった。心配なのは昭雄の憔悴ぶりだけだった。ふと見せる疲労の濃さが昭雄の心情を表わしていた。それは小林にもすぐに分かることだった。いくら昭雄が明るく振舞っても、小林に心労の重さは伝わってくるのだった。
「おはようございます」
 昭雄の後方から小林の声が聞こえてきた。
「おはようございます」
 昭雄は小林の方を向きながら笑顔を見せる。
「今日も早いですね」
 小林が自分の席に着いた。
「もう、ずっとこの時間帯に出勤してきたから」
 昭雄が答える。
「仕事は早いし志賀さんのこと皆、いい人が来てくれたって言っていますよ。志賀さんなら大丈夫ですから」
「いや、どうでしょう。どれほど力になれるか」
 小林の励ましに昭雄が少し照れた。
「今日はオバマメガネに寄って、他に何社か新規で求人がないか見てきますよ」
 昭雄は今も新規の求人会社がないか営業をかけている。本来ならば昭雄ほどのキャリアでは新規で広告営業をかけることなど珍しいが、自分がそうしていることに不満を感じてはいない。昭雄は他のスタッフに挨拶しながら営業部を出るとエレベーターの方に向かった。ちょうど一階に降りると各フロアのゴミの回収作業を終えた清掃員がエントランスホールのクロス作業をしている。
「毎日、ご苦労様です」
 昭雄が声をかけた。清掃員は笑顔で頭を下げた。
 昭雄はビルを出ると裏口の駐車場に停車してある営業車の後方のドアを開け荷物を置いた。オバマメガネには午前十時に行く約束をしてある。昭雄は車に乗ると表通りに出た。月曜日の午前中はそれほど道も混んでいない。約束の十五分前にはオバマメガネに着いた。
 昭雄は会社の入口で総務部で担当者の岸田紀夫を呼んだ。岸田は昭雄と二歳ほど若いがきさくな男だった。今回の岸田の依頼は海外業務全般をこなせる人材の募集だった。
 オバマメガネ中国市場を強化するために、合弁会社設立に関わる人材を探している。年明けから動ける人材を採用するためには十一月以内には採用を決めたいという岸田の要望だった。昭雄は十一月から告知するためにインターネット版の中途採用の求人広告の内容を決める打ち合わせを進めた。一週間以内に取材しネット作成担当のデザイナーに材料を渡さなければいけない。その作業を進めるために、この日、岸田からもう一人、人事部の谷由紀子という担当者を紹介された。
「食事でも一緒に行きませんか」
 求人広告の取材日程など打ち合わせが終わった時に岸田が昭雄に言った。岸田と食事に行くのは今日で三度目だった。ヒューネクストの小林同様に岸田も昭雄に何かと世話をかけてくれる。
「何がいいですか。志賀さんは蕎麦なんか食べますか」
「いいですね」
「近くにうまい蕎麦屋がありますよ。蕎麦屋歩きはしている方ですけど、市内でも上位に入ると思います。少し待っていてください」
 昭雄に言いながら岸田は谷も誘った。
オバマメガネから十分ほど歩いた所に「そば処 柳川」はあった。昼前とあって広い店内にも既に多くの人が入っている。
「蕎麦とおにぎりの定食がうまいですよ」
 岸田は壁のメニューを見ながら言った。
「じゃあ、それにします」
 昭雄はすんなりと答えた。
「じゃあ、蕎麦おにぎり定食でいいですね」
 岸田が谷にも確認した。
「結構、混んでいますね」
 昭雄が店全体を見渡した。
「ここは昼間は客でいっぱいになるから。少し早めに入るのがいいですよ」
 岸田は学生時代を東京で生活した経験があることから標準語を話す。
「もうだいぶ、福井の生活にも慣れましたか」
 傍らの谷が聞いた。
「そうですね。もう半年が過ぎたから」
「東京なんかに比べたら何もない所だから。分かりやすいでしょう」
「なんとなく静かな感じがしますね。東京は騒がしいですよ。ここに比べたら」
「谷とは初めてですね。食事するの」
 岸田が話を変えた。
「そうですね。岸田さんとは何度かご一緒させていただいていますが」
三人分の蕎麦定食が運ばれてきた。
「小林さんから以前に志賀さんが音楽をやっていたと聞きましたが」
 岸田が蕎麦を口に入れた。
「バンドですか。そういえばもう半年間、演奏していないですね」
「結構、長く活動していたんですか」
 谷が聞いた。
「そうですね。自分はギターですけど。学生時代から演奏していたから、もう二十年以上になりますか」
「そうですか。それは長い・・」
 岸田が頷いた。
「でも、もうやめたから」
昭雄はぽつりと言った。
「転勤で福井に来てからはやっていないんですか」
 谷が聞きながら水を飲む。
「ええ、三月でバンドも脱退したから」
「そうですか。もうやらないんですか」
「仲間がいませんよ。福井には」
「私たちも音楽やっているんですけど、一緒にどうですか」
 谷の突然の言葉に昭雄が驚いた。まさか、福井に来てバンド活動の話など出るとは想像していなかったのだ。しかも自分が東京でバンド活動をやってきたことをヒューネクスト上司の小林は東京の部員から聞いていたのだ。オバマメガネを自分に紹介したのも、そんな昭雄のことを考慮した面もあったのだろうか。
「いや、趣味でやっていた程度ですから」
 昭雄が蕎麦を食べた。
「自分たちも趣味ですから。何かライブというかコンサートは頻繁にやられていたとか聞きました」
 岸田が水を飲んだ。
「小林さんがそんなことを言っていましたか」
「ええ。結構、熱心に取り組んでいらしたと聞きました」
 岸田が由紀子の顔を見る。
「ちょうどと言っていいのかわかりませんが、ギターを担当しているスタッフが辞めたんですよ」
 思わず昭雄は谷の話を聞きながら深呼吸した。
「私たち『バード』って名前のグループなんです。ボランティアで老人ホームや施設でコンサートを開いたりしているんですよ。音楽活動自体は志賀さんたちとは比較にならないとは思いますけど」
 谷の声が幾分、小さくなった。

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