「海に沈む空のように」第19回 昭雄が東京で会った二人の人物

 翌週の土曜日の午後二時過ぎ、志賀昭雄は東京駅に着いた。
三か月振りの上京だ。十月下旬の東京駅に柔らかな薄日が差し込む。乗降客で混雑している中を昭雄は少し急いでそのままホームの階段を降り中央線のホームへと向かった。午後二時十分始発の快速電車が停車している。発車のベルが鳴る中を昭雄は飛び込んだ。福井駅で買ってきた「五月ヶ瀬」三袋を横に置いた。
 昭雄がうとうと居眠りしている中で中央線は新宿駅を過ぎ、気が付いたら立川駅に着いていた。昭雄は北口の改札を通り、ハイプラザ立川を抜け歩く。十五分ほど歩いた所に介護施設「フラワー」があった。
 昭雄が介護士の女性に案内され、さなえの部屋をノックした時、本人はベッドに横になっていた。介護士は「さなえさん、息子さんがみえましたよ」と声をかけたが、反応がない。もう一度、大きな声を出した。ゆっくりとさなえが目を覚ました。
「息子さんですよ」
 そう言いながら介護士は微笑んだ。昭雄は頭を下げた部屋の中に入った。
「元気かい」
 突然の息子の訪問にさなえは少し意外そうな表情を見せた。
「いつ来たの」
「今日、朝早くに福井を出たから」
 昭雄は「五月ヶ瀬」を片隅のテーブルの上に置いた。
「これ福井のお菓子。結構、おいしいよ」
 さなえは上半身を起こし、土産袋の方を眺めた。
「お菓子かい。ありがとうね」
「どう、身体の具合は。どこか悪いんじゃないよね」
「いつもこの時間は眠くなってね。お茶を飲むかい」
 さなえがベッドから起きようとする。
「いいよ。自分でやるから」
 昭雄はそう言うとテーブル横に置いてある湯呑茶碗を手にした。
「久しぶりだね。どうだい福井の生活は」
 二人で話すとさなえが軽度の認知症であることは否定されるような気がした。それとも回復に向かっているのだろうか。
「まだ、冬はこれからだから。どうかな。年末年始が少し気になるね。東京よりも寒いようだから」
「そうだろうね。日本海だからね」
 さなえが昭雄からお茶を受け取る。
「雪が降らなきゃいいけどね。降り始めたら、たぶん大雪になるんじゃないかって言うから」
 昭雄がお茶を飲んだ。
「大雪かい。そうなると大変だね」
「今はどこで雨が降っても豪雨になるから。家が沈んでしまうだけでなく、村が消えるっていうのは怖いね」
「本当に大変な世の中になった」
 さなえがテレビでニュースを見ることを欠かさなくなったと以前に話していたことを昭雄は思い出した。夫とそれまで面倒を見ていた娘が突然に死亡したことのショックが気になっていたが、意外と元気を取り戻していることに安堵した。
「東京にはいつまでいるの」
 さなえが聞いた。
「明日には福井に戻るよ」
「忙しいね。もっとゆっくりしていけばいいのに」
「仕事があるから。そういうわけにもいかないさ」
 さなえは頷きながら下を向いた。
「悪いね。たまにしか来られなくて」
 昭雄自身、ここ半年は母親のめんどうをみる余裕はなかった。それよりも自分自身が分からなくなることが多かったのだ。自己不信は、昭雄を東京の肉親や家族にまで気持ちを向けさせようとしなかったのだ。それは悪意に近い感情かも知れない。人はこうしてうつ病にかかるのだろうかと昭雄が気付いたのはつい最近のことだ。
 福井に転勤が決まった当時は、なぜ、自分がそんな地域に転勤になるのか納得できないでいた。しかし、父親の娘の殺害と自死という自分の背負わされた十字架は、会社を馘になるのではなく、左遷という形で処理されたのだ。昭雄はそれでも生き残り、今は東京に戻ることができて何より久しぶりに会う母親が元気を取り戻していたことに安堵した。
「今日はどこに泊まるんだい」
 さなえが窓の外を見た。
「実家に泊まるよ」
 昭雄の返事にさなえが頷いた。
 昭雄が施設を出る頃には辺りは薄暗くなっていた。急いでそのまま立川駅で東京方面の中央線の特急に乗った。もう一軒に行く用事があったのだ。
 特急は四谷駅には夕方五時半過ぎに着いた。上智大学方面の改札を抜け新宿通りの横断歩道を渡り新宿方向に歩く。五分ほど歩いた所に四谷新ビルはあった。昭雄は七階建ての古びた小さなビルの一階のポストで「時田治夫事務所」を確認した。七階最上階でエレベーターを降りると、入口のドアをノックした。しばらくして時田がドアを開けた。
「先日、お電話しました志賀です」
昭雄は丁寧に挨拶した。
「どうも、時田です」
 時田が昭雄を中にうながした。
「お忙しいところ、すみません」
 昭雄は土産を差し出した。
「ありがとうございます」
 時田はお菓子の入った袋を受け取るとテーブルの上に置いた。八畳ほどの事務所は入口付近にテーブルとソファーが置かれ、左奥に机がある。フリーライターの事務所らしく両脇には多くの本が積まれている。
「どうぞ、狭い所ですが」
「土曜日のこんな時間にすみません」
昭雄は名刺を出しながら改めて頭を下げた。
「お気になさらないでください。フリーに土曜も日曜もありませんから。いつもこの時間はここで原稿を書いていたりします」
 時田が名刺を差し出した。確かに仕事中だったらしく、少し疲労の色が顔に滲んでいる。
「先日もお電話でお話ししましたが」
 昭雄は自分が三月に時田が「週刊真実」で書いた自分の家族に起こった惨劇の記事を読んだこと、そして、妹の優子が以前に父親の雄一郎が冤罪事件が疑われた自分が担当した裁判を覆すことがなかったことを責めたのではないかという憶測記事を読んだことを話した。記事はあくまで憶測で書かれていたが、昭雄はこの記事をきっかけに二十年前の一九九八年に千葉県内で「連続少女殺人事件」が発生し、犯人として逮捕された人物は真犯人ではないというニュースや司法の間で論議が交わされていたことをインターネットで知ったのだ。
 事件は同年の六月から十月にかけて千葉県松戸市と柏市で発生し、当時、松戸市に住む五歳の所田京子ちゃんが六月に、また柏市内に住む六歳の木原愛ちゃんが七月に何者かに首を絞められ殺害されたものだった。千葉県警は十一月に犯人として松戸市内に住む五十五歳の無職・前田次郎を犯人として逮捕した。京子ちゃんの首を絞めた際に、何かの拍子に手に傷を負った前田の血痕らしき血液をDNA鑑定した結果、重要参考人として挙がった前田のものと一致したというのが逮捕の理由だった。前田には死刑判決が下されたが、数か月後に同人を犯人とする鑑定方法に疑問の声が上がったのだ。しかし、裁判官はこの裁判を冤罪として覆すことはなかった。裁判官は昭雄の父親である雄一郎だった。
「コーヒーは飲みますか」
 時田は立ち上がると、近くの冷蔵庫から缶コーヒーを取り出した。
「どうぞ、冷たいですが」
 時田が昭雄の座るテーブルの前に缶コーヒーを置いた。
「ありがとうございます」
「今日、東京にいらしたんですか」
 時田が缶コーヒーの栓を開けた。
「ええ、明日には福井に戻ります」
 昭雄が缶コーヒーを手にする。
「記事を拝見した時は少し動転していて。何か落ち着かなくて」
 昭雄がぽつりと口にした。時田が深呼吸した。
「もう少し早くご連絡すべきだったんですが」
「無理もありませんよ。少し落ち着かれましたか」
 時田がコーヒーを口にする。
「ええ、最近、ようやく落ち着いた感じもします」
 昭雄は自信なげに言った。
「まだ、いろいろ大変だと思います」
 時田の柔らかな言葉に昭雄は多くの事件を取材している記者らしいと感じた。

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