「海に沈む空のように」第24回 昭雄が福井の仲間と音楽活動を再開へ

 土曜日の昼過ぎ、志賀昭雄は数日前に届いたばかりのギブソンのギターをケースに入れると、近くの駐車場に止めてあるアコードの後方座席に置いた。今日は午後一時からバンド「バード」のスタジオでの練習がある。
 
 昭雄は約十か月振りのバンド活動に胸が躍った。
父親と妹が死んでからは音楽活動している場合ではなかった。もう自分がギターなど弾くことも、歌を唄うことも、そして、ライブを行うことなどないと思ったのだ。いや、そんなことをやっている精神的余裕などなかった。だから、東京のバンドを脱退し、ギターも東京の実家に置いたままにしていた。
 まさか自分が福井に来て、音楽活動を再開することなど夢にも思わなかった。だから、仕事先でバンドに誘われた時は、本当に迷ったのだった。福井に来て自分が音楽活動をするとは全く考えていなかったのだから。オバマメガネの岸田典夫と谷由紀子から誘いを受けた時は、まさに夢のような気分がした。自分のやってきた音楽と、岸田たちの音楽活動に共通点があるかすら分からないなかで参加することを承諾してしまったが、実際に一緒に活動してみなければうまくいくかどうかは分からない。
 
 だから昭雄は最初は少し躊躇したが、岸田のもしうまくいかなければ、やめればいいと言われた瞬間に、気が軽くなり参加することを承諾したのだった。あくまでアマチュアバンドだから、それほどは真剣に考えなくていいことなのだと岸田は笑った。
 
 しかし、昭雄は東京ではアマチュアとはいえ、一週間に三度はスタジオに入り、ライブのための楽譜作りは睡眠時間を削って行ってきた。東京での活動は真剣そのものでもあったのだ。東京のバンド名は「スカイブルー」で学生時代に組んだバンドだった。メンバーは現在も全員が、コンピュータ会社や、新聞社、保険会社、商社などに勤務している。アマチュアとはいえ、月に一度は渋谷のライブハウスで多くのバンドが集まり開催されるライブには必ず参加し、多い時はほとんどの日曜日がライブ活動で埋められたりした。
 昭雄は父親が妹を殺害するという悲惨な現実に遭遇するまで、どちらかというと軽い大人だったかも知れない。自分が自殺を考えることなど全くなかったのだ。ましてや家族を持ってからは毎日が忙しくなり、そんなことを考える暇さえ全くなかったといっていい。あえて言えば家族にはあまりいい父親ではなかったと言えるだろう。
 妻の時子はそんな昭雄に不満を持つことはなかった。時子とは大学時代にライブを通じて知り合った仲なのだ。あくまで、今回の夫の父と妹が突然に死亡するという悲惨な出来事が起こるまでは、時子もどこかでいつまでも夢を追い続ける昭雄を許していたのだろう。
それがもう唄など歌っている場合ではなくなった。実際に昭雄の人生は四十歳を過ぎたばかりで終わってしまったかのようだった。東京を離れたことなどなかった男が転勤を指名された福井県など、今まで一度も考えたことがなかった。存在自体も知らなかったといっていい。
 そんな失敗を知らずに人生を歩んでこられたからこそ、ある意味ではあまり深く物事を考えることのない男だったのだ。比較的、恵まれた家庭に生まれ、自分も失敗することなく四十歳を過ぎるまで生きてきた。人生などこんなものだと思ってきた。しかし今、昭雄は人生の生きる意味を嫌というほど考えさせられ、福井という地方の県を知り、そこに住む人のことを知ろうとしている。もちろん、この地で再び自分がギターを演奏することになろうとは夢にも思わなかった。
 昭雄は車を福井駅前の音楽スタジオのあるビルの駐車場に停めた。ギターを後方の座席から取り出すと、入り口の方に歩き始めた。と、昭雄の目の前に一台のワゴン車が止まった。運転席から岸田典夫が手を振った。岸田は既に楽器をスタジオ内に持ち込んでいることから、軽い手荷物だけを持って車から降りてきた。
「林君が十分ほど遅れるって、さっき連絡がありました。何か家のはずせない用事があるらしいです」
 岸田が笑顔を見せた。
「谷さんはもうスタジオの中に来ているから」
 岸田が谷由紀子のライトブルーのヴィッツを指した。
「みんなも今日は久しぶりだから」
 エレベーターの中で岸田が言う。
「志賀さんは結構、キャリアをお持ちのようなので、自分たちがついていけるか心配ですわ」
「いや、自分も半年以上、ギターを弾いていませんでしたから。もう音楽はやらないでおこうって思っていたんですけど。まさか、こうしてお誘いいただくなんて想像もしていなかったですよ」
 エレベーターがスタジオのあるフロア地下二階で停止した。エレベーターのドアが開くとすぐにスタジオのドアがある。昭雄は志賀の後に続いた。
「お疲れさん」
 スタジオの中では由紀子がコーヒーを炒れている。
「お疲れさまです。志賀さんもコーヒー飲みますか」
「すみません。いただきます」
「今日は編曲なんかも決めて、打ち合わせを兼ねた会ですから」
 スタジオの打ち合わせ室の隅に昭雄はギターを置いた。
 「志賀さんの活動のことは何度かお聞きしたので、日本の曲については自分たちとはそれほど変わらないかなって感じもしています。ただ、自分たちは海外の曲は演奏していないし、人数も全然、少ないから。そ点は物足りないかも知れないですけど我慢してください」
 岸田が申し訳なさそうに言った。
「大丈夫ですよ、自分だってそんなにうまい方じゃないから。半年も演奏していないとうまくいくか心配ですよ。本当に毎日、練習しなきゃすぐに鈍っちゃうから。東京にいた頃は昼休みで社にいる時なんかも、練習していましたから」
「スポーツと同じで練習を怠るとダメなんですよね」
 由紀子が岸田と昭雄にコーヒーを渡した。
「すみません。遅れました」
 林公三がスタジオに入ってきた。
「用事は無事に済んだの?」
 岸田が聞く。
「ええ、息子の塾ことで。かみさんと揉めちゃって」
「塾か。いろいろ大変だね」
「まだ、自分は早いんじゃないかって思うんですけど、息子の友達なんかは通っている人も多いっていうから」
「林さんの息子さん、来年から中学生でしょ。最近は皆、塾に通う人も増えているからね」
 由紀子が林にもコーヒーを渡した。
「福井の小中学生の学力レベルは全国でも高い方やからね。皆、頑張るわけや」
 岸田が言った。
「本当や。自慢の一つやね。これは」
 由紀子がコーヒーを口にした。
「志賀さんも娘さんがいらっしゃるんでしょう?」
 由紀子が続ける。
「ええ、もうすぐ中学ですね。勉強の方も忙しくなる時期ですよ」
 昭雄の脳裏に陽花の笑顔が浮かんだ。
「今は別居だから大変ですね」
「家内に任せっぱなしだから」
 昭雄が少し口籠った。あまり家族のことは話したくないというのが本音でもあった。たぶん、ここにいるメンバーは自分の家族に何が起こったのかを把握していない。昭雄の家族のことを知っているのは、「ヒューネクスト」の昭雄の上司である小林明彦だけだ。できるなら家族のことはあまり話したくないというのが昭雄の本音だった。

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