小説「海に沈む空のように」第27回 この静かな海が全てを包んでくれる

「このコースは日曜は比較的、混みそうですね」
 井田が話を変えた。
「日曜にここを通行止めにするのはむずかしいわ」
 文蔵が窓から海を眺める。
「でも、今年はマラソンレースのコースとして十二月に通行止めにするようです」
 井田が今年の十二月の第二日曜日に開催される東尋坊から越前海岸までのマラソンレースのことを話した。
「刑事は因果な商売や。君もいろいろ辛かっただろう」
 文蔵がポツリと言った。
「・・・・家族には迷惑をかけたかも知れません」
「誰かがやらなあかん仕事やからな」
「仕事は大変でしたが、今は刑事になってよかったと思っています。後悔はありません」
「そうか・・・・それならいいが」
「きっと妻も息子も許してくれていると思うし・・・・・」
 井田はそう言うとアクセルを踏み込んだ。
「たぶん人は罪を背負ってこの世界に戻ってくるんや」
 文蔵が独りごちた。
 井田はハンドルを握り前を向いたままだ。
「だから苦しむんよ。いつまでたっても平和な暮らしなどできない・・・・よくなっているようでな。そうでもない」
「多くの人は生きるのは辛いと感じていると思いますわ。いつになったら救われるんですかね。この苦しみから」
「さあ、どうかな。このままでな。死んだら楽になる、楽になるには死ぬことしかないんかも知らん」
「ある意味では普通に生活できることに喜ばなあきませんわ」
「ほうや。少しでも楽しいとか、うれしいと思う瞬間に、感謝して喜ばなあかんのや、本当は。そこを忘れているんや。楽しいこと、うれしいこと、楽なことがあって当然でなくて、苦しいことが当たり前なんや、この世界はな」
文蔵が微かに笑みを浮かべた。
「この海が今はこうして、静かに波を立てていることに感謝せんとあきませんね。自然が猛威を振るい出したらどうなるか。全国で発生している災害を見ても十分に分かります」
「そやな、この静かな海が全てを包んでくれるということに気づかなあかん。海水の温度が少しでも上がったら、どうなるか。災害の被害が出て分かるんじゃ遅いんや」
 文蔵が海を眺め続ける。
「マラソン大会も無事に終わるようにせんとあきませんね」
「ほうやな、晴れるといいけどな。皆に警備の方を頑張ってもらわんとな」
「今まで一度も開催してこなかったんやから。皆が期待していますわ。北陸新幹線が開通したんやから、福井ももっとピーアールせんとあかんって。参加する子に聞きましたけど、エントリーはすぐに締め切られたって言ってましたから人気はあるんですわ」
「ほうか、とにかく事故なしで終わらんとな。最近は本当にどこで何があるか分からんから。米国でもマラソンレースでテロがあるくらいやから」
文蔵の言葉に井田が頷いた。
十一月二十日 東京
 日曜日の午前十時過ぎ、台所で野菜の水洗いをしている志賀時子は玄関のドアホーンが鳴っていることに気づいた。
 「ちゎーっ宅急便です」
 宅配便の業者だと分かった時子は玄関を開けた。
「志賀昭雄さんのお宅ですね。荷物が届いています」
 時子は荷物を受け取り、その場で中身が昭雄の仕事関連の書類と明記されていることに気づいた。差出人はヒューネクストを書かれている。
「すみません。この荷物は転送していただけますか」
 時子は帽子をかぶった宅配業者を止めた。
「こちらではないですか」
「ええ、志賀は現在、福井の方に転勤していますので、会社関連の書類は福井に送っていただいた方がいいかと思います」
「そうですか。じゃあ、転送先をここに記入してください。送料はどうしますか」
 宅配業者が送付状を時子に渡す。
「送料はこちらでお支払いします。ちょっと待っていただけますか」時子が台所のテーブルの上の財布を取りに行った。
「で、こちらに送っていただけますか」
しばらくして時子が台所から戻り、昭雄の福井の住所が書かれた送付状を渡す。
「おいくらですか」
「九八〇円です。明日には到着しますが、時間指定はありますか」
「そうね。できれば最終便がいいと思うわ」
「じゃあ、午後六時から八時の便でよろしいですね」
「はい。それでお願いします」
「ありがとうございます」
 宅配業者は礼を言うと表に止めてある車の方に向かった。
 
 時子は台所に戻り洗いかけのニンジンの入ったザルの水を切った。そろそろ陽花が英語の塾に出かける時間だ。今日で塾通いも二つ決めに入る。時子が水道の蛇口を閉めた瞬間、陽花が台所に入ってきた。
「よかった。ちょうど今、呼びに行こうと思っていたところよ。忘れ物はない?」
「大丈夫、ちゃんと昨日に準備したから。お母さんは今日は一日、家にいるの?」
 陽花はそう言うとテーブルの上のお菓子をつまんだ。
「今日は先生とランチ会をやりながら勉強するんでしょう。帰りは何時ごろになりそう?」
「たぶん、夕方の四時ごろになると思う」
「そう。気をつけてね。お母さんは仕事は休みだけど、もしかしたら買い物に出かけているかも知れないから。何か用事とかあったら連絡してね」
「分かった」
「気を付けるのよ」
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
 時子は玄関先で陽花を送ると再度、台所に戻った。現在、第一と第三日曜日は時子の仕事も休みになっている。カード会社の仕事はシフト制で動いているから、日曜日出勤も交代で勤務できる。
 夫が単身赴任している時子のような人間にとっては、日曜日に出勤してもさほど問題はなかったが、陽花のことを考えると、たまの日曜日は家にいて一緒にどこかへ出かけたいという気持ちもあった。しかし、その陽花自身も一か月程前から塾に通い始めてしまった。自分の夫の家族の悲惨な事件さえなければ、たまの日曜日は昭雄のバンドが開くライブに出かけたりしたこともあった。
 昭雄が福井に転勤になって半年以上が経過したが、時子は夫の働く福井には一度も出かけていない。自分の仕事が月二回日曜出勤になることや、今は陽花が塾に通い始めたということが理由ではあった。しかし、時子と昭雄の間ではあの事件以来、昭雄とのコミュニケーション自体が極端に減ってしまったのだ。
 昭雄が福井に転勤になる前からお互いの意思の疎通が少なくなったことに時子は気づいていた。それほど、父が娘を殺害し自ら命を絶つという出来事は衝撃的ではあった。時子はこのままではいけないと思う。このままでは二人の間に溝ができたままになってしまう。自分は決して夫のことが嫌になったわけではないのだ。
 夫自らが起こした事件ではなく、あくまで義父であり夫の父に起こった出来事なのだと。義父が裁判官だということ、翻訳者の妹の優子のことも時子は尊敬していた。二人が残念な最期を迎えたとはいえ、家族という関係さえなければ夫とは関係のないことなのだ。何度も時子はそう自分に言い聞かせてきた。義母のさなえのことも気になってはいるが、忙しい毎日が施設訪問を鈍らせている。時子は決して良い嫁ではないのだろう。そんなことも考えることが多くなっていた。

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