路上記.28「嵐の渦巻く川を泳ぎ切らねばならない。格差社会、自然災害など困難が続く時代の教科書、超大作『カムイ伝』の魅力」

 9月11日あたりから最高気温が30度を切り、朝晩は長袖が必要になるほど涼しくなりましたが、16日からは再び最高気温も30度になるなど夏はまだまだ続きそうです。
 
 暑い夏に必ず思い出す一つの光景があります。中学生の頃、天野は父親の仕事の都合で異国に住んでいました。その年の夏は自宅近くの大きな式場で式典があり、国を統治する大統領が列席していました。やがて大統領が挨拶で式場の中央に立った時、事件は起きました。何者かが大統領をピストルで射殺しようとしたのです。犯人の持つ拳銃から放たれた銃弾は大統領本人からは逸れ、傍らの婦人の身体を貫通し射殺したのです。 
 
 事件発生時、天野は偶然にも現場近くをタクシーで通っていました。付近は式典に出席していた観客や大勢の軍人、警官らが駆け回り物々しい雰囲気に包まれ、異様さが漂っていました。車は止められ警官から尋問も受けました。 もちろん、この時に何が起こったのかは、家に帰宅してから分かったことです。
 タクシーには父親と兄貴、そして天野の3人が乗車していました(当日、母親は自宅で留守番をしていました)。当時に住んでいた国では、日曜日には必ず親子で市内に出て買い物や食事をするのが日課でした。しかし事件が発生して以降、外出は控えざるを得なくなったのです。当初、犯人は日本人じゃないかという噂が流れ、日本人に対する批判が相次ぎ、日本人が襲われる可能性があるとの話が出始めたのです。のちに犯人は在日外国人だったことが判明します。
 
 歴史上、日本との関係が複雑で何かトラブルが発生すると、日本人への反感が強まる国だったことから、しばらくの間、天野たちは外出を控え、父親の会社への出勤や帰宅、子供たちの登下校には特別な管理体制が敷かれました。南北に分断されたこの国では戒厳令も敷かれていました。天野が戦争や殺人、そして差別という問題を意識し始めたのはこの頃だったと思います。
 
 事件の発生当日に自宅からタクシーで市内まで行ったのは、白戸三平さんの「カムイ伝」を買うためでした。もちろん、ある日に父親が店で見つけ買うと言い出した本です。当時、その国では日本の新聞、雑誌や漫画本は全て税関でチェックされ、公に日本の本や雑誌など販売はされていませんでした。しかし、市内ビル街の細い路地に集中していた闇市に行くと、高額ですが日本の雑誌や書籍、漫画が販売されていたのです。「カムイ伝」は1度に約3巻ずつを買い続け、全巻を読破した記憶があります。異国でしたから、日本の本や雑誌や漫画を見つけると釘付けになって耽読しました。そして父と兄と天野の親子3人で回し読みした最初で最後の本となったのです。
 
 中学生になったばかりでしたが、天野は「カムイ伝」の独特な作風や物語を読むのが楽しみでした。日本に帰国してからも連載は続いていて、コミックスが発売されるたびに買って読んでいました。現在も続いていて、さいとうたかおさんの「ゴルゴ13」に並ぶ長編大作となっています。先月に発売された「サライ9月号」(小学館)では新作も掲載されました。
 
 「カムイ伝」は長編ですから全巻を読破するには時間もかかります。解説本として数冊が出版されていますが「白戸三平伝 カムイ伝の真実」(毛利甚八著、小学館)は、白戸さんの家族や育った土地や生活環境、インタビューなどを交えた、「カムイ伝」の魅力に迫ったノンフィクションで、読み方なども解説しています。「『カムイ伝』の第一部をじっくりと読んでみれば、そこには極東の日本という風土で数百年間続いてきた、人間の『食うための闘い』が執拗に描かれているのがわかる。飢饉のさなかでも食べるものもなく飢えで死んでいく人々が容赦なく描かれ、死にもの狂いで権力に抵抗してもあっけなく踏みつぶされ殺されていく運命の姿がこれでもかといわんばかりに提示される」と毛利さんは序章で書いています。
 
 また、「カムイ伝講義」(ちくま文庫)は「カムイ伝」を大学の講義に採用し、その講義録をまとめたものです。著者の田中優子法政大学国際日本学インスティテュート教授は同書の中で、「日本人とは何か、私たちはどんな仕事をしてきたのか」「武士が重要な位置に登場しているが、人はなぜ人を支配するのかというテーマが最初から最後まで貫かれている」と述べています。
 
 そして生みの親である著者の白戸三平さんは「決定版 カムイ伝全集第一部 1誕生の巻」(小学館)の「全集刊行にあたって」の中で「今も無言の死を叫んでいる人がいる。日本では年三万人余の自殺者がいると聞く。いつの世も嵐は凪(な)ぐ事もなく、激流は人々を押し流している。前方に大きな渦が見えている。しかし、我々はこの川を泳ぎ切らねばならないだろう」と記しています。

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