小説「海に沈む空のように」第30回 ある日、昭雄に届いた脅迫文書

●前回までのあらすじ
 志賀昭雄は福井県内の大手部品メーカーの社員食堂で働く高田花子らとの飲み会に出席した。花子は友人の井上妙子を連れてきていた。二人は福井市内のマラソンクラブに所属し、年末に開催の「越前海岸マラソン」に向け練習を積んでいた。昭雄は久しぶりの若い仲間との飲み会に心をときめかせる。一方で妙子は車いす生活を送る弟・真一の就職先を探していた。昭雄は相談に乗る。
 
 志賀昭雄たちが花子らと飲み会を終え、居酒屋の外に出たのは午後十時過ぎのことだった。
 福井市内の駅周辺には冷たい雨が降っていた。花子と妙子の二人は駅から車で十分程の所の同じアパートに住んでいる。三人は居酒屋を出て商店街を抜け駅前のタクシー乗り場に向かった。
「それじゃ、具体的な話が決まったら、一度、弟さんに面談に来てもらうことになるから連絡します」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
 妙子は丁寧に昭雄に頭を下げた。
「じゃあ、仕事とマラソンがんばってね」
 昭雄は先に二人をタクシーに乗せた。そのまま二人を送り後方に待つタクシーの後方のドアをノックした。昭雄が自分のアパートの前に着いたのは午後十時三十分過ぎだった。ほろよい加減で自分の部屋の前でドアのカギを差し込む。ドアが開いたとたんに、何か封筒のような物が落ちた。昭雄は何かの案内だろうと、白い封筒を手に持ち、玄関の靴箱の上に置いた。
 室内の灯りをつけ封筒を再度、手にする。封筒の表面には自分宛の名前は書かれている。昭雄は何だろうと中身を空ける。一枚の便せんが折られて入っている。
「気をつけろよ、おまえを殺す」
と紙には書かれていた。名前も差出人も書かれていない。ただ、一言、そう書かれている。一瞬、紙をつぶしそのままゴミ箱に捨てた。
 昭雄はキッチンを抜け奥の部屋でジャンバーを脱いだ。酒を飲んだせいか部屋の中に入ると身体が火照っていることに気づく。玄関先で手にしたいたずらの文書に驚き心臓の鼓動が高まったのだった。深呼吸すると再度、キッチンのゴミ箱から紙片一枚と封筒を掴んだ。
「気をつけろよ、おまえを殺す」
 昭雄はしわくちゃになった紙を伸ばすと折り直し、封筒の中にしまい込んだ。誰かのいたずらだろう、そう思い本棚の隅に置く。土曜の深夜、テレビではお笑い番組を放送している。
しばらく昭雄はテレビ画面を眺めていたが、スイッチを消すとシャワー室に向かった。
 シャワーを浴びた後で、台所の冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出し飲んだ。しばらく、テレビをつめたままぼんやりと画面を眺めていたが、酔っていたせいか眠くなり、隣の部屋のベッドにもぐりこんだ。
 
 翌朝、昭雄は午前六時過ぎに目が覚めた。一旦、トイレで小便をしたが、寒いせいか再度、ベッドにもぐりこんだ。しばらく目を閉じたが数分後には、昨日に届いた一枚の脅し文書が気になり起きた。
 
 テレビのスイッチを入れ、続いてスマホをオンにしメール画面を開く。メール受信の画面にはいくつかの文書が届いていた。いつも金曜日の夜に届く宗教めいた文書もある。差出人は昭雄の知らないアドレスと名前だったが、中身が嫌な気分のする内容ではないことから受信を拒否することはなかった。
 父親と妹が死亡して以降、宗教関係のページを検索することがあったことから、その時に検索した項目の団体からの勧誘も含めた発信だと考えていた。内容は昭雄を励ますようなメッセージが多かった。
「仏教ではこの世界に生きることを四苦八苦といいますが、人生には辛いこと、苦しいことがつきものです。しかし人は苦しむことで、高貴な存在に奉仕することになるのです」
 昭雄が開いたメールにはこうメッセージが書かれていた。何か自分の生活をどこかで見ていて励ましてくれるような気がした。それ程、金曜日の夜に届くこのメールはいつのまにか昭雄にとって重要なものになっていたのだ。しかし、このメールに返事は書けない。返信は受信されないように設定されている。
 この年になるまで宗教や精神世界になど関心を持つことはなかった。しかし、父親と妹が殺し合いながら予想しない死に方でこの世から消えたという過酷な現実には、自分がどう対応していいのか、自分自身をどう励まし続ければいいのか分からないでいる。それは現在もそうなのだった。そして、予期せぬ事態がまた起こった。昭雄への脅迫という、これも想像もしたことのない出来事だった。
 不幸は連鎖するのかも知れない。幸運と同様に。昭雄は一枚の紙片を見た時、そんなことを考えた。四十年の人生があまりにも裕福であったが故に、その現実は過酷さを越えているような気がした。
 自分はこれでおしまいかも知れない。それは妹の優子の気持ちかも知れない。しかし、若干の三十代でこの世から消えなければいけなかった女性の気持ちが、まだ、未練という形で残っているような気がしてならない。昭雄は思わず両手を合わせ祈った。成仏してくださいと。それは父親の雄一郎に対しても同じ気持ちだった。
 自分もこのまま誰かに殺されるかも知れない。昭雄の脳裏を何か暗い影が走った。思わず部屋の窓を開ける。外からは冬の到来を告げる冷たい風が入ってくる。数十メートル先に流れる足羽川の土手の桜の木々が枝だけとなってひっそりと立っているのが見える。
 昭雄はしばらくその木を眺めていたが、気を取り直すと台所に入り、ヤカンに水を入れた。水が半分ほどになったとこで隣のガスコンロの上に置き、火をつけた。換気扇を回すと玄関のドアを開け外に出る。何か落ちていないか確認するが何もない。人の気配もなかった。ドアを閉めお茶を入れる湯呑茶碗を取り出しテーブルの上に置いた。すぐにお湯が沸いていることに気づき火を消した。お湯をポットに入れ、お茶の入った容器にお湯を注ぐ。容器を横に降ると湯呑お茶碗に注いだ。
 
 誰かが自分を監視しているような気がした。
脅迫文書のことを元刑事の井田一郎に相談しようと思った。このままでは本当に自分の身に危険が及ぶ。昭雄はお茶を飲みながら奥の部屋に戻ると、外を眺める。あたりを見渡しながら人の気配を探った。冬の福井市内には冷たい空気が漂っている。この空気は東京では感じたことのない空気だった。この街の冬の冷たさは今までに感じたことのない冷たさだと昭雄は感じる。
「この世は苦しみの連続なんだ」
ふとそんなことを考える。スマホの時計を見ると午前八時四十分を過ぎている。井田はたぶん、土曜日のこの時間帯は東尋坊の周辺をパトロールしている。昭雄はスマホの連絡先画面から井田の連絡先を探すと、そのまま電話番号を押した。三度のコールの後で井田が出た。
「おはようございます。早朝にすみません。志賀です」
 風の音が耳に響く。昭雄は声を大きくした。
「おはようございます」
 井田は少し驚いたような声であいさつを返した。
「今、大丈夫ですか」
 昭雄の耳に海に吹く独特の風の音が響いてくる。
「大丈夫ですよ。今、パトロール中です。どうかしましたか」
 井田も土曜の朝の昭雄からの連絡に違和感を感じたようだ。
「お忙しいところ、すみません。実はご相談がありまして。昨日に妙な手紙が届いたんです」
昭雄は自分に届いた脅迫文書のことを井田に告げた。

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