小説「海に沈む空のように」 第32回・冬の越前海岸と空の青さにうたれる

●前回までのあらすじ
 元刑事で現在は「東尋坊 心の会」で働く井田一郎に脅迫文書が届いたことを告げた志賀昭雄には、福井県警から宮川雄二巡査が警護についた。昭雄は福井駅近くの喫茶店で井上妙子と車椅子に乗る弟の真一と会う。昭雄は妙子から弟の仕事の相談を受けていた。

「今日は土曜日だから比較的、空いているね」
 志賀昭雄がコーヒーを運んできた。
 昭雄を警護している宮川雄二巡査が奥の席に進んだ。
「真一君は仕事をするのは初めてなんでしょう」
「いえ、仕事は自宅の仕事を手伝っていました。主に事務仕事ですが」
「お父さんが原発のプラント関連の会社を経営されているんですよね」
「ええ。真一はそこで事務仕事をやっていました」
 真一に代わって井上妙子が答えた。
「パソコンなんかは使えるの」
 頷きながら昭雄が真一に聞く。
「大丈夫です」
 真一がはっきりと言った。
「そう。じゃあ、電話業務なんかはどうかな」
「電話業務ですか・・・・」
 真一が聞いた。
「そう。外からかかってきたお客さんの対応業務なんだけど・・・・」
 昭雄は顧客先である損害保険会社の電話業務について説明した。ちょうど昼間に働ける人を探しているという。
「仕事は事故や災害に遭った人への対応で、状況を聞き、損害保険の手続きをする仕事なんだけど。電話でかかっていた保険加入者に瞬時に対応できなきゃいけないから、その辺が大丈夫かなって」
 昭雄がコーヒーを飲んだ。
「なんていう会社ですか」
 妙子が口をはさんだ。
「ビクニヤ損害保険・・・自動車会社の子会社なんだ。今、僕が営業で回っている会社で、この前、若い人を探しているって聞いたから、真一君のことを話したら大丈夫だって、担当の人が言ったから、どうかなって」
「ありがとうございます。大丈夫です。ぜひ、お願いします」
 真一が大きな声で返事をした。妙子も頭を下げた。
「ネットで検索すれば分かるけど、一応、会社案内とかを持ってきたから」
 昭雄が資料を真一に渡した。
「やる気があるようだったら、週明けにでも連絡してみて。先方の担当者の名前は木戸進って言うんだけど。直接に連絡して会ってみて。これが木戸さんの名刺のコピー」
 昭雄の目の前の二人は会社案内を広げた。
 ふと昭雄は奥の席に座る宮川を見た。宮川は新聞に目を通している。周りにあやしげな人物は見当たらない。
「ありがとうございます。木戸さんには月曜日にでも連絡します」
 真一が再度、頭を下げた。
「仕事自体は慣れればそれほど、むずかしい仕事じゃないと思うから。ただ、研修には一週間ほどかかるかな。三か月は見習いで、正式に決まっても契約社員だけど大丈夫ですか。その辺りは」
 昭雄が確認した。妙子が真一の顔を見る。
「いいよね、仕事があるだけでも有難いことだし。なかなか仕事を探すこと自体がむずかしいんだから」
「契約社員でもいいです」
 真一がはっきりと答えた。
「はじめは見習いだから時給千円だったかな。その辺も問題はない?」
 昭雄が聞く。
「生活費はしばらく親が支援してくれるって言っていますんで」
 妙子が言った。
「ええ。しばらくは」
 真一がうなづいた。
「契約社員になれば、どれくらいの給料になるのか、その辺は確認してください」
 昭雄が少し申し訳なさそうに言った。
「とにかく仕事ができるだけでも有難いからね」
 妙子が真一に念を押した。
「ほや。一生懸命にやらんと」
 真一が笑顔で答えた。
「じゃあ、とりあえず大丈夫そうだね。妙子さんはマラソンのレースも近いんでしょう」
 昭雄が話を変えた。
「ええ。天気が気になりますけど」
「そうだね。この時期は福井は雨が降ることが多いと聞いたけど。晴れるといいね」
 真一が隣で頷く。
「日頃の行いが良ければ晴れるんやろうけど」
 真一が笑いながら言う。
「ほうや。ほやで晴れや」
 妙子が福井弁で交わす。
「雨が降ってもやるんでしょう」
 昭雄が聞いた。
「そうですね。マラソンは雨でも雪でもやるから」
 妙子が覇気のある声で言った。
 十二月十日は最近の福井地方では珍しく晴れだった。以前まで年末近くはこのような晴天の日が続いた。本当に澄み切った青空が福井の街や海、山に一体となって広がったのだ。「第一回 越前海岸マラソン」が開かれる記念すべき日が晴れたのだった。
 昭雄は高田花子と井上妙子に誘われて応援に行くことを約束していた。もちろん井田一郎も来るという。越前海岸は福井県敦賀市杉津から越前岬を経て、坂井市三国町の東尋坊に至る海岸で国道三〇五号線の総距離約三十八キロ、マラソンはこの地点を含むゴールまでの四二・一九五キロがルートとして組まれた。ゴールは東尋坊を過ぎて約キロ弱の所にあるキャンプ場となった。
 福井に来てから昭雄は何度か東尋坊に出かけたが、ここは本来、自殺の名所ではなく断崖絶壁の続く絶景が眺められる日本でも有数の観光地なのだ。何よりも一月には満開を迎える水仙が至る所に咲き乱れる。寒い冬に咲く花がレースに華を添える。
 レースはスタートが午前九時でゴール締め切りが午後三時の六時間レースだ。昭雄はスタート時間前に間に合わせるために、午前五時に起床し六時には家を出た。花子たちは七時にはスタート付近に到着して準備を始めると聞いていた。ゴールは何時になるか分からないからスタート地点に会いに行くのがいいと思ったのだった。
 昭雄は車に乗ると福井市内から国道八号線に出て越前町の方に行く裏道に入った。
越前町は広く、町に入っても越前海岸までは、まだ三十分以上の所にある元丹生郡と呼ばれた地域だ。丹生郡宮崎村と丹生郡織田町は福井市内から車で一時間程だが、数年前に合併し越前町と変えられた山間部である。花子たちが走る越前海岸沿いは旧織田町からも、さらに車で三十分はかかる。
 織田を過ぎ車はトンネルを抜ける。そこから山間部を下るとやがて海が見えてきた。冬の海とはいえ、青空が広がる中で海を見ながら、昭雄はウキウキした気分になった。
少し蛇行しながら海沿いを走る。岩が迫ってくるようだ。やがて数本の「越前海岸マラソン」と書かれたのぼりを見つけた。大勢の人が集まっている。
 昭雄は渋滞を予想してレース会場に一時間前に着くよう家を早めに出たが予想に反して会場まではスムーズに入ることができた。午前七時半過ぎ昭雄は車を指定の駐車場に停車しスタート地点を探した。
 目前には青々とした海と空が広がる。昭雄はこんな海を見たことがないと感じた。さすがにマラソンレースらしく会場付近は人でごった返している。昭雄はマラソンレース会場に来たのは初めてだった。
 早朝にもかかわらず、これだけ多くの人たちがレースのために来ていることに驚いた。昭雄はどちらかというとスポーツにはあまり関心がなく、ましてやマラソンとなるとハードだなあという印象を持っている程度だった。最近、運動不足は気になっていたが、ジョギングをすることすら考えたことはなかった。昭雄は思わず海に向かい背伸びすると、大きく深呼吸した。

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