小説「海に沈む空のように」第37回・いつもと変わらない福井の日常

前回までのあらすじ
 昭雄を襲った谷川恭二は平成九年に信用金庫で強盗殺人事件を起こした会社経営者・谷川淳一の弟だった。恭二は兄の淳一に関する栽培に不満を持ち、裁判官だった昭雄の父親・雄二郎を逆恨みしていた。息子が健在だと知り、福井まで昭雄を追いかけてきたのだった。しかし、福井県警の刑事たちの警護で、昭雄が怪我をすることはなかった。

 志賀昭雄に気がついた二人は、黙ってゴミ袋を持ったまま給湯室から出ると左側のエレベーターの前に立った。三基あるエレベーターのうち左のエレベーターは業務用の運搬も含まれている。二人はそのまま下の方に降りていった。
 昭雄はオフィスのドアを開けると中に入った。自分の席に着き、日経新聞、朝日新聞、福井新聞に目を通す。やはり、昨日の事件のことが気になったのだ。「越前海岸マラソンで暴行事件」の記事を取り上げていたのは福井新聞のみだった。
 昭雄はお茶を炒れるために給湯室に向かう。まだ、ゴミを回収し終えていなかったのか、清掃員が戻ってきていた。
「おはようございます」
 昭雄は清掃員に声をかけた。
「おはようございます」
 清掃員は頭を下げた。
「あれ、さっき、いましたよね」
 昭雄がポットにお湯を入れながら聞いた。
「ええ、先ほどはすみませんでした」
 わけもなく清掃員が謝った。
 昭雄は少し不思議に思った。
「今日も寒いですね」
 清掃員が独り言のように言った。
「そうですね。雨にならなきゃいいんですが」
 昭雄はポットにお湯が一杯になるのを確認した。
「昨日はいい天気でしたね。福井では珍しい。いつもあなた、声をかけてくれて。清掃員なんて孤独なもんですから、うれしかったですよ」
清掃員はゴミ袋にゴミを回収し終えた。
 昭雄はもう一人の若い青年のことを聞かなかった。
「今日も晴れるといいですね」
 昭雄が青年に笑顔を向けた。
「そうですね」
 若い清掃員が頷く。
 
 昭雄がいつも会社に出勤した朝に会う清掃員には、何かと声をかけては世間話をしていた、話す内容は時事的なことが多かったが、その清掃員がなぜここで仕事をしているのかを聞くことはなかった。清掃員には以外な人が働いていることを以前に東京のバンド仲間から聞いたことがあったのだ。
 例えば、プロのミュージシャンでも清掃のバイトをすることがあると、バンド仲間が話していたことを思い出した。通信社に勤めながら昭雄たちと一緒バンド活動をしていた戸田典夫の友人には、プロのミュージシャンがいた。高田修という男だ。彼はピアノを弾いていたが、主に広告関係で音楽の作曲をしていた。有名なミュージシャンのバンドにも参加したことがあるという。
 
 高田はそれでも、音楽家として有名になることはなかった。もちろん、CM曲はそれなりに需要はあったから、一般のサラリーマンよりは稼ぎはいい方だった。妻との間にできた一人息子はアメリカの音楽大学に留学させたくらいだ。妻もレコード会社で働いている音楽一家だから、息子も音楽関係の仕事に就かせたいというのが、高田の夢でもあった。
 そんな話を戸田から聞いていた昭雄も、自分の娘・陽花をどこか海外に留学させてやりたいと考えていた。昨今は世界で何が起こるか分からない情勢が続いているから、海外、海外と、あまりウキウキした気分ではいられないが、それでも帰国子女は、日本だけで育つ人事よりも就職面などでも有利な風潮が日本にはある。
 音楽関係に進まなくても、英語など留学先の語学を身につけるだけでも、これから陽花が社会に出て生活していく上では有利な条件となる。一度、高田が昭雄たちの練習するスタジオに遊びに来たことがあったが、高田の陽気さに、なるほどとなぜか納得したものだった。昭雄はふとそんな高田の笑顔を思い出した。
「ここの仕事は長いのですか」
 ふと我に返り、昭雄が目の前の清掃員に聞いた。
「いえ、自分はまだ半年ほどですかね」
「何人で清掃しているのですか」
「このビルは大きい方だから、夜の清掃も含め六人くらいですかね」
「いろいろ大変ですね。朝、早いし」
「ま、この年になったら清掃くらいしか仕事もないし。身体を動かすにはいい運動にもなりますよ。一日、三時間や四時間のバイトだからね」
 そう言うと清掃員は笑みを初めて浮かべた。
 昭雄はそのまま給湯室からオフィスの方に向かい、ドアの前でカードをかざすとドアを開けた。
「越前海岸マラソン」の翌日も、いつも通りに仕事が始まったが、昭雄に上司から昨日の襲撃事件を聞かれることはなかった。夕方になり残業することもなく、昭雄は会社を出ると車に乗り、アパート近くのスーパーに寄った。
 入口付近で買い物籠を手にすると、そのまま生鮮コーナーの前に向かう。ほうれん草一袋を手にすると、そのまま籠に入れる。次にネギを籠に入れる。そして、バラの人参を数本、手にする。今日の人参は幾分、いつもと比べると細いような気がした。それでも栄養には欠かせない野菜だ。
 夕方のスーパーは買い物客で賑わっている。四方から「いらっしゃーい」の大きな声が昭雄の耳に響いてくる。客はほとんどが女性だった。
 昭雄のような男性客はほとんどいない。昭雄は酒類コーナーに行くと、缶ビールを三本、籠に入れた。毎日に飲むビールを欠かしたことはない。福井に来てから酒量は増えているかも知れない。ふと、昭雄はそんなことを思った。

5d99c938.png

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA