NOVEL「闇が滲む朝に」第3回・大変だよ、柴犬のケンタがいなくなった

 片山二郎はスーツを脱ぎそれまでに就いていた仕事から一八〇度違う清掃会社で、オフィス清掃の仕事を始めた。慣れない仕事と生活に苦痛を感じ困惑しながら、生活時間帯も出会う人々も、これまで出会ってきた人たちとは少し違う生き方をしてきた人たちと出会い、どん底の生活の中で「何か」を掴み始めた。

 ハイクリーンの事務所は、駐輪場から十分程歩いたツキノワグマビルの一階にある。そのまま道を右方向に歩き正面入り口を過ぎて従業員入り口の方に向かう。玄関でカードキーをかざすと中に入る。後方から西日が差し込んでくる。従業員受付を過ぎ、そのまま真っ直ぐに進むとエレベーターホールを抜けた所で右に回りドアを開けた。さらに薄暗い廊下を前に進んだ所に小さな事務所の看板が見えた。
「お疲れ、です」
 片山は大きな声を発しながらタイムカード機に自分のカードを入れた。
「かたやまちゃん、お疲れさん。大変だよ。大変なことになった」
 いきなり主任の矢野順平が机の椅子に座ったまま声をかけてきた。一メートル八十センチ近くはある大柄な男だ。
「どうかしたの?」
 この時間帯は片山も疲労がピークに来ている。言葉少なげに言うと詳しい話は聞かずに自分のロッカーのドアを開けた。矢野はこの時間は清掃作業も一段落して、事務的な仕事に時間を費やすことが多い。片山は事務所の奥に入り作業着に着替え始めた。
「大変だ、大変だ」
 矢野が一人言を言い続けている。
「ゴミ袋が届いていますって、担当の里山さんが伝えてって」
 隣のツキノワグマビルの総務部屋から事務の古崎明子が戻ってきた。
「じゃあ、取りに行ってくるよ」
 矢野が椅子から立ち上がった。
 腰を上げ椅子から立ち上がると矢野は隣の総務に向かった。今年で三八歳になる矢野はハイクリーンに入社して二年目だ。昨年からこのビルで主任として仕事をしている。古崎は事務職でこの事業所だけでなく他の事務所も担当している。

 表向きは事務職だが社長の古崎達造の長女だ。何かと仕事に口を入れてくるけむたい存在でもある。平日は二日程この事務所に顔を出している。
「お疲れ様です」
 作業着に着替えた片山が古崎に挨拶した。
「何かあったんですか」
 片山が聞いた。
「いえ。どうして」
「主任が大変だって」
「何か言ってましたか」
 古崎が怪訝な顔をした。
「いや、何でもないならいいんですが」
 片山はいつもの矢野の冗談だろうと気づいた。矢野は冗談で突拍子もないことを言うことがある。片山は余計なことは言うまいと口を閉じた。
「じゃあ、私、そろそろ本社に戻るから」
 古崎がロッカーからバッグを取り出した。
「袋、届いたよ」
 矢野が四箱のビニールのゴミ袋の入った箱を持って総務から戻ってきた。
「それじゃ、あとはよろしくね」
「はい。お疲れ様です。気をつけてください」
 古崎はバッグを手に持つと事務所を出た。
「大変だよ、かたやまちゃん」
 矢野が再び切り出した。
「どうかしたの?」
 片山が事務所中央のテーブルの椅子に座る。
「ケンタがいなくなった・・・・」
 ケンタとは矢野が可愛がっている牡の柴犬だ。

闇朝3回
小説第一弾「海に沈む空のように」は電子書籍として発行する予定です。
利用規約 このブログに掲載されている文書やイラスト及び写真、映像、広告などは、著作権法、関連条約・法律で保護されています。これらについて、権利者の許可なく複製、転用等する事は法律で禁止されています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA