NOVEL「闇が滲む朝に」第4回・辛い現実に精神を停滞させてはいけない、身体を動かせ

 片山二郎はふとしたことから転職に失敗し路頭に迷った。それは深い亀裂の谷に落ち込んだような感覚だ。失業は今までの人生や自分自身を否定されてしまうようなものだと感じる。こうして人はうつ病になり、自分自身の存在について考えてしまうのだろう。
 精神を停滞させてはいけない。なんでもいいから仕事に就いて身体を動かすことだ。

「逃げちゃったの?犬・・・・」
「どうしょう。朝、起きたらケンタがいなくて。首輪が切れたまま犬小屋の前に残っていたよ・・・・」
 片山二郎が驚いてペットボトルのお茶を飲んだ。
「どうしょう?」

 いつもになく矢野が落ち着かない。
「昼に家の近くを探したんだけど」
「戻っていない?」
 片山の質問に矢野が頷いた。
「ちょっとタバコ吸ってくるから」
 矢野が事務所の隣の喫煙室に行った。
 作業着に着替えた片山は事務所中央のテーブルの椅子に座ると傍らの水槽を眺めた。中では十匹のグッピーとミナミヌマエビたちが泳いでいる。熱帯魚は矢野の趣味だ。身長が一八〇センチ近くあり、顔立ちが侍のような矢野はその風貌や仕事振りからは想像できないぐらいに、繊細に犬や熱帯魚を可愛がる優しさも持ち合わせている。
 十代から二十代で経験したことが、そのような趣味を持つようになったきっかけにつながったのではないかと片山は、一緒に仕事をするようになって感じていた。矢野はあまりにも重い経験を経てここに来たのだ。辛い経験をしているのは自分だけではない。
 片山は二年前の年末にそれまで長年に渡り勤務していた編集プロダクションから転職に失敗して半年程、路頭に迷った。世の中の底を歩いたのだ。既に五十代で一般的な就職活動では自分の希望する仕事に就ける年齢ではなかった。それでも片山は何とかなるだろうと考えていた。それまで何度かの転職で希望する職種に就けた経験が、そう片山を思わせていたのだ。
 しかし、世間の風は生ぬるいものではなかった。不況による二極化や情報通信産業の急成長は大きく経済構造を変化させていたのだ。次の安定した仕事を見つけるまで片山は宅配便の仕分け作業や飲食店などでアルバイトをしながら家計を維持してきた。
 既にこの国では自分より若い世代に複数のアルバイトを持つフリーターや就業者に非正規契約社員が増えていることは知っていたが、まさか自分も同じ立場に陥るとは考えていなかった。
 五○歳過ぎという年齢は誰が見ても中年の領域に入る。病気でこの世から去ってしまった知人も多い。片山も失業して以降は、何度も自分は生きているが死んでしまったような感覚にとらわれることがあった。社会に抹殺されてしまう。そんなことも考えた。
 自殺してしまう人には、精神的重圧が原因で鬱病になり、いつのまにか死を選んでしまう人が多いが、片山はこの感覚に近い状態にもなった。幸運にも鬱病に陥らなかったのは、三十歳半ばを過ぎて始めたランニングで自分の身体を鍛えていたからだ。
 ランニングをしていなかったら、自分も自殺する人たちと同じ状態になっていたに違いない。疲労から喪失感や無力感が何度も片山を襲うことがあった。清掃の仕事なら自分は継続できるのではないかと感じたのは、ランニングを始めマラソンやトレイルレースに出るようになってから、身体を動かすことで自分の体調が良くなったという実感があった。
 失業して以降、特に清掃業に就いてからは走る時間はなくなり、いつのまにか走る練習もレースに出る時間もなくなってしまったが、その分、一日のほとんどを清掃という仕事を通して身体を動かし続けるようになったのだ。

闇朝 第4回谷
小説第一弾「海に沈む空のように」は電子書籍として発行する予定です。
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