NOVEL「闇が滲む朝に」第5回・熱帯魚のいる変わった清掃会社の事務所と武藏のような男

 ひょんなことから転職に失敗して、ハイクリーンという会社で清掃の仕事を始めた片山二郎は、ツキノワグマビルの一角にある薄汚い事務所に出入りするようになった。それでも事務所内には熱帯魚のいる、きれいな水槽が置かれ、中には多くのグッピーが泳いでいた。清掃会社の事務所に熱帯魚がいるというのも変な組み合わせだと思ったが、世話をしていたのは少し変わった武藏のような風貌の矢野順平だった。

 誰もが清掃の仕事を楽しいとは思わない。ゴミ回収も掃除機かけもトイレ掃除も、床の汚水を集めるかっぱぎ、モップ拭きからポリシャーで床を洗いワックスがけをする食堂などでの各スペースの定期清掃や、カーペット清掃も基本的には人が汚した空間をきれいにする仕事に変わりはない。

 ゴミ回収などでは本当に自分の捨てるゴミに気を遣わない人間が多い。一つのゴミ箱に燃えるゴミ、燃えないゴミのプラスチック類を入れる者もいる。その上、ジュースはコップに半分そのまま残したままだ。トイレでは小便器や大便器を汚さない人はいない。やはり人は罪人なのだ。生きていく以上はこの地球を汚さずにはいれない生き者なのだ。

 片山二郎はジュースを半分、残したまま燃えるゴミ入れに捨てたことはなかったが、この仕事に就くまで、ゴミの捨て方に気を使う人間とは言えなかった。無造作に捨てられたゴミを目の当たりにするたび、疲労感だけが片山を襲うことはこれまでにも多々あった。怒りというよりもただ徒労や疲労だけが自分を襲うのだ。

 そんな時、片山は自分が走っていた頃のことを思い出す。そして、世界的なレースや日本でも大きなレースで偉大な記録を残している有名なトレイルランナーや、マラソンランナーたちと走った時の自分との実力の違いを見せつけられた時の辛さや、プロの厳しさを思い出すのだ。自分にあの厳しさを越える力がないから、全てに見放されたような地の底を這うような生活を強いられるのだと。そう自分に言い聞かせることで、無力感を脱出する。

 若い人の過労による鬱病以外に、中高年が会社をリストラされ自殺を選んでしまうのは経済苦以外に、会社や社会から見放され自分は必要とされていないと感じてしまう喪失感から来るものもあるに違いない。人は仕事や家庭などの生き甲斐を失った時点でも、大きな絶望を感じてしまう弱い存在なのだ。

 だから突然に予期しない出来事に人が遭遇した時、どう対処できるかも、この世界で生き残っていく術でもある。人は百歳を越えて健康で生活できる時に始めて日々の生活に喜びを感じるというが、事業や生活面で成功した人の多くは何らかの病気で苦しむ。裏を返せばほとんどの人が、定めである病気の苦しみを人生の最後の最後に味わいこの世界から旅立っていく。まして自分が望まないことを強いられる生活は、苦しみそのものでしかない。

 もちろん、日本人も七○年前までは戦争を経験している人が多く存在したから、戦争体験者から見たら戦争以外の苦しみなどたいしたことはないのは言うまでもないが。しかし、それでも苦しみや死は人それぞれに体験レベルは違っても、戦争で苦しむ程に悲惨な体験になるということも否定できないのだ。

 主任の矢野が事務所で熱帯魚を飼っているのは、スタッフへの気配りと清掃業務の日常を少しでも楽しくしようという心がけなのだろう。事務所内に熱帯魚を入れた水槽など置くなんて、たぶん日本に数多くある清掃事務所の中では、ここ以外には殆どないはずだ。矢野は魚が好きで夏には必ず泊まりがけで海釣りにも出かける。

 二十代の頃にはサーフィンもやっていたというから海好きなのだ。仕事で見せる性格の激しさからは想像できない面もある。宮本武蔵のような風貌で破天荒だがいつもジョークで人を笑わせるりっぱなリーダーシップの持ち主でもある。

「どう、先輩? 調子は」
 矢野が喫煙所から戻ってきた。気を遣ってか矢野は一回り年上の片山をこう呼ぶ。そんな矢野を片山は仕事のうまさとリーダーシップがあることから「隊長」と呼んでいる。「水槽の中の水は汚れないんだね」

 片山が透き通る水の中を泳ぐグッピー達を眺めながら言った。
「洗浄機つけているからね。あと中で水槽の下の砂や藻が常にフンや微生物などを浄化してくれるから」
「そんな仕組みになってるの。結構、熱帯魚の世界も凝っているんだなあ」
 片山は水槽の中を覗き続けた。

「ここにエビがいるでしょう。このエビも微生物を食べてくれるんだ」
 矢野の表情が明るくなった。

    片山はこの事務所に通い始めていつのまにか二年が経過した。最初は本当に場末の薄暗い倉庫にでもやってきた気分だったが、この事務所がハイクリーンの中ではスペースの広さも心地よさもおそらく一番良い環境にあることに最近になって気づいた。この二年間でハイクリーンの他の仕事場にも出かける機会があったがどこも広くはない。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA