NOVEL「闇が滲む朝に」第12回・土曜の富士山と社員食堂の定期清掃

 片山二郎は土曜日にツキノワグマビルで矢野順平や高戸明らと共に、社員食堂の定期清掃を始めた。高戸が床の汚れを落とすポリシャーを回し、片山はかっぱぎで水を集め、最終的にバキュームで吸い上げる。他のメンバーはモップ拭きをしながら床を清掃する。しばらく待ち床が乾いたら、仕上げに矢野順平がワックスをかける。700人を収容する食堂からは富士山が見られる。一瞬、片山の心がなごむ。富士山を眺めながら深呼吸する。

「もう井田さんたちも用意できていると思うから。そろそろ行きますか」
 矢野は高戸と片山に声をかける。
 三人は事務所に戻ると尾崎と室井和子に挨拶した。室井は六五歳だ。ハイクリーンで働く女性たちは比較的、年齢層が高い。大手などでは若い女性たちも多く働いているが、大半の清掃業はトイレ掃除があるため女性で六○歳を過ぎた人が多い。

 ハイクリーンでは平日の夜掃の柳井晶子が四五歳で若い方だった。尾崎などは六八歳だが元気な方で土曜日の定期清掃以外では、朝の清掃四時間の枠で働いている。室井は夕方の清掃と土曜日の定期清掃が担当だ。
「そろそろ暑くなるから、クーラーかけた方がいいね」
 矢野がエレベータの中で言う。

「そうだな、クーラーが少しでも動いていりゃ助かるよ」
「もう暑いもんね」
 高戸に続いて室井が答えた。
「用具は準備してあるから」
 
 七階でエレベータが止まると矢野が空いたドアを手で止める。
「さ、皆、早く出て」
 七階の社員食堂は約七百人を収容できるスペースになっている。おのおのが食堂に入ると六人がけのテーブルの椅子を全部、テーブルの上に上げていった。澄み切った青空の右向こうに富士山、左向こう側には東京スカイツリーが見える。

 片山はふと、山に出かけなくなって二年が過ぎたと思う。山だけではない近くの公園にさえ出かけなくなった。休みの日は一日中、家にいることが多い。とにかく、仕事のある平日は家にいる時間は六時間ほどだけだ。他の時間帯は外で仕事をしている。つまり、ほとんど身体を動かし続けているのだ。

 清掃の仕事に就くまでは、マラソンレースに出場していたから、休日は練習のために必ず四時間は走ることに時間を費やしていた。しかし、今の片山にはそんな時間の余裕はないのだ。移動の時間は眠り、少しでも睡眠時間を稼ぐ。一日に最六時間近くは自宅で睡眠をとるようにしているが、まだ足りない。十分に六時間以上は睡眠をとらなければ、健康は維持されないとテレビの健康番組で知ったから、あと一時間を電車の中や休み時間にとるようにしている。

「じゃあ、かたやまちゃんは、かっぱぎとバキュームで水を吸いとっていって」
 矢野が高戸の担当するポリシャーのコードをセッティングした。
「了解」
 片山は隅のバキュームのコードをコンセントに入れた。高戸が隅からバキュームを動かし始めた。井田が後方からコードを持つ。ポリシャーは一人が運転し、もう一人がコードを持ちヘルプする。片山は高戸がポリシャーを回した後から床の水を、かっぱぎで集めていく。
 
 ある程度、水を集めたら大型のバキュームで吸い取る作業を続ける。大勢を収容する食堂だから広い。十時間三十分の休憩を入れて約三時間が床の清掃、次に床を乾かしてワックスを塗る。ワックスが乾くのが午後一時三十分頃で、椅子を元の位置に降ろしたり整理して午後二時に作業が終了する。-この作業は六月と十二月の年二回、行われる。

「高戸さん、そろそろ休憩に入りましょう」
 食堂の約三分の二のスペースの清掃を終了した時点で矢野が声をかけた。高戸はポリシャーのスイッチを切った。
「やっぱり、クーラーが効いているだけ汗の出る量も少ないな、助かるよ」
「そうですね。でも暑くなりましたね」
 
 梅雨入り前だが、日の当たる七階の社員食堂は既に暑い。クーラーをかけなければ暑さで参ってしまう。これから夏場にかけてはエネルギーも通常の二倍以上を消費してしまう。今や日本は五月に真夏日となる日もある。

 生態系から人の生活まで温暖化はあらゆる場面で悪影響を及ぼしている。本当にこの暑さにはかなわないと片山は思う。夏が好きだと感じていたのは二十代までだ。もう四十歳を過ぎてからは夏の三か月をどうやり過ごすかが課題になった。
特に清掃の仕事を生業とするようになってからは夏の暑さを地獄だと感じることが多くなった。階段清掃などではクーラーはもちろん風も入らない場所で清掃作業を行う。まさに地獄なのだ。

 この苦しみの原因は自分の罪以外にない。自分が社会から見放されたという疎外感による精神的な疲労に加え、肉体的な疲労が重なり言葉を発せない日も珍しくなくなるのだ。どうすることもできない状態になった時、この苦しみを経験することで罪が浄化される。
罪が浄化されれば、この世界の決定的な存在に奉仕することになると片山は自分に言い聞かせる。
 
 苦しい経験をすることが「おおいなる存在」に近づくという考えは、いつの間にか片山の身に着いた発想だった。いつの頃だろうか、自分がこの世界で生きてきて経験した、死ぬかもしれないというハードな経験が、片山にこのインスピレーションを与えたのだ。

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