NOVEL「闇が滲む朝に」第13回・この世界に来たのは、本来の自分が成長するため

 令和元年、おめでとうございます。  

   この時期は仕事中は汗をかく日が多い。暑くなることでより仕事がハードになる。冬に比べ辛いと思うことも多くなる。仕事を投げ出したくなることも多い。しかし、片山二郎は夢で聞いたことを思い出す。本来の自分はこの世界で辛い経験を積むことで、自分自身を成長させるのだ・・・・。片山は土曜日のツキノワグマビルの社員食堂で定期清掃をしながら、そんなことを思い出す。

 既にこの時期になると、仕事中は暑さから汗をかく。特にこの数年で日本は温暖化があらゆるところで顕在化し、夏場にかけては暑さで辛さが今まで以上に肉体に影響している。人は生きるだけでも辛く苦しいことが多いのに、暑い中で日々生活していくために辛い労働に従事しなければいけない。なぜ、こうも辛いことが続くのかと考えざるをえないと片山は思う。

 この世界に降り立った以上は、自分がガンで死んでもエイズになっても交通事故に遭遇しても、それでもそれをわかっていても、本当の自分はこの世界での短い生涯を経験したがっている。それは本当の自分が成長するためだと片山は夢で聞いたことがあった。そのことが忘れられない。

 辛い苦しい経験はつまり、何度も生きて死ぬことを経験してきている本当の自分の今までの罪を浄化するためだとも。自分の肉体は借り物で、本来の姿は修行に来ている魂なのだ。
だから今、自分が清掃という肉体労働者になったことも意味のあることなのだ。片山は自分が仕事による睡眠不足と肉体的精神的疲労と、暑さ寒さで苦しくてどうしょうもなくなるとき、このインスピレーションを得た時の自分を思い出すのだ。苦しむことが自分を成長させるのだと。

 休憩所の喫煙所では片山の両隣では椅子に座ったまま矢野がマルボロ、高戸がマイルドセブンを吸う。二人ともタバコは一日一箱を吸う。
「本当に食堂から見る富士山は綺麗だよ」
 高戸がタバコを吸いながら言う。高戸は毎日、七階の食堂のモップ掛けを担当している。
 
 今日のように天気の良い日は早朝七時には富士山が目の前に現れる。片山も何度か食堂から富士山を眺めた。そして、今日も同じ富士山が遠方ではあるが確かに見える。日本の名所であるこの富士山もいつ噴火するかも知れないといわれるようになった。日本はいつあの東日本大震災のような惨劇に巻き込まれるかわからないのだ。関東大震災並みの地震もあり得るのだ。

 この日本という地形が出来たこと自体、この地球は常に変化していることを証明している。この世に来てこうして毎日、三度の食事ができること自体が奇跡なのだ。ここに来た以上はいつ、どこで、災難や事故に遭遇するかさえ予測できない。だから、常に備えなければいけない。それは個人の身体や生活にも言えることなのだ。それほど、我々はここに来て辛くとも普通に生活できる貴重さを学ばなければいけないのかもしれない。

 そして、今、自分はこうして新しい人生を生き始めたことにも感謝しなければいけないということを、タバコの煙の香りを嗅ぎながら片山はふと思う。まさか、自分は清掃というこの仕事に就くということも、今、隣でタバコを吸っている、全く自分とは考え方も生き方も違う人たちと出会うとは考えていなかったことだ。

 しかし、そんな一般的な生き方とは違う、自分の身体力だけで生きている人たちがいつのまにか自分の励みになっている。もちろん辛いことは多いはずだが、どこかあっけらかんとした生き方をする人たちの姿が、片山の目の前にあった。
「さ、そろそろやりますか。事務所に戻りましょう」
 矢野がタバコを缶に投げ捨てた。

「さ、いくよー」
 事務所で休息している井田と室井を矢野が呼んだ。エレベータで七階に上がると片山はかっぱぎを手にする。高戸がポリシャーのスイッチを入れた。ポリシャーの長いコードを井田が高戸の後方で支えた。食堂の広い窓から入る光線が眩しい。片山は高戸の回すポリシャーの後から、かっぱぎで水を集めていく。やがて床半分の面積の水を集め終わると、大型のバキュームを取り出しスイッチを入れて機械で汚れた水を吸いとっていく。

 室井がモップ二本で床を拭いていく。既に矢野は前半に乾燥機で乾かした床にワックスを塗り始めている。作業はリズミカルに乱れなく進む。チームワークなのだ。片山は作業をしながら何かスポーツをしている感覚になる。いつも、そう思うのだ。

 やがて一時間後、後半部分の清掃が終わった。矢野はそのままワックスをかける。
片山たちは清掃に使用した機器を七階の食堂から一階の洗浄場に運ぶ。高戸は一足先にポリシャーを運び出し洗浄を始めている。少し遅れて洗浄場に着いた片山や井田が全ての用具を洗う。

 そして用具の洗浄が終わると、一階の事務室と二階の待ち合わせ室の給茶器の洗浄を始める。この作業を終える頃には七階の食堂で矢野のかけたワックスが乾く頃になる。既に高戸も井田も室井も事務所に戻って帰宅の準備を始めている。片山は再度、食堂に戻り矢野と二人でテーブルの上の椅子を元の場所に戻し始めた。

「今日も予定通りに終わったね。よかったよかったよ」
 矢野が冗談交じりの外国語訛りの日本語で言う。
「さ、今日は早めにあがろう、明日は釣りだね」
 最終的に用具類のチェックを終えた矢野が片山に声をかけた。
「明日は早めに出かけるから。体調は大丈夫?」
 事務所に戻ると矢野が言った。
 既に高戸たちは事務所を出ていた。

 

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