NOVEL「闇が滲む朝に」第15回・静かな海で『生』を実感。死ぬわけじゃないから。

日曜の早朝、片山二郎は矢野純平と千葉の館山に釣りに出かけた。そういえば、最近、空を見上げる機会が少なくなったと片山は思う。仕事が忙しくなり、移動期間は疲労で歩くだけが精一杯の時が多いのだ。海を目の前にして息を吹き返しながら、片山はふと「死ぬわけじゃないから」と、矢野が仕事がハードになると呟く馬鹿な男の口癖を思い出す。

目の前に海が広がる

    静かな海の波音が耳に響く。午前四時過ぎ、館山の海岸は既に明るい。この辺りは釣りが盛んな海で、既に釣り客が片山たちの駐車する車の近くに駐車している。
「あの先まで行くから」
 矢野がプリウスから降りた。

「いい眺めやなあ」
 片山も続く。目前に大海原が広がる。
「さ、準備して」
 矢野が車の後方に回りトランクを開ける。

「さ、かたやまちゃんも手伝って」
 矢野が次々に釣り道具を車から出した。
「もう釣り始めているね」
 既に数人の釣り人が釣り糸を垂れているのが見える。

 片山も釣り竿を持つ。
「早い人は早いから」
 矢野が車にキーをかけた。
「さ、行くよ」

 矢野は早足で防波堤の方に歩き始めた。全く仕事の疲れなど見せない。その辺は三十代なのだ。中年の片山とは違う。片山はここしばらく目の下の隈が消えたことがなかった。
    防波堤は五十メートルほど先まで海に続いている。先端で数人の釣り人が糸を垂れている。

「さあ、大物を釣るぞ。道具は貸すから、かたやまちゃんも準備して。わかるでしょ、やり方」
 矢野は防波堤の先端近くに着くと、釣り道具を降ろし準備を始めた。片山も矢野に指示された釣り竿にリールを巻き準備を進める。

「餌まきしてから・・・」
 矢野が餌まき用のエビをまく。
 片山は大きく深呼吸した。
 

死ぬわけじゃないから。

 海など何十年も見ていないような気がした。海に出かけたのはいつの頃か。

     本当に日々の生活に追われるだけの生活を続けてきた自分は、近くの公園にさえ行く時間を失ってしまった。空を見上げる余裕さえなくしてしまったのだ。

    朝早くから夜遅くまで働きづめで、今の自分の目の前には暗い夜明け前の朝と、重い夜の気配だけが広がるだけだった。

 そんな片山の気持ちが軽くなり海の波に乗る。静かな波が防波堤にリズミカルに押し寄せる。自分は確かに生きている。

「この海でサーフィンをしていたんだよ」
 矢野が釣り竿を垂れながら言う。

「サーフィン?」
「もう最近は行けなくなったけど」
「いくつの時?」
 片山が聞いた。

「サーフィンやっていたのは高校時代が一番多かったね。この辺に来るのも」
 

    意外な矢野の過去に片山は驚いた。
「いろんなことをやってきたんだね」

 矢野は社会に出て以降はアパレル業界や電機工事の仕事で生計を立ててきた。

    しかし、三五歳を前に渋谷でチンピラに絡まれるというアクシデントに遭遇して以降は、矢野は仕事を休まざるを得ない状況に追い込まれた。

    顎を割られ足のすねを折ったのだ。奇跡的に命は助かったが半年間、正常に歩くことができなかった。

 矢野も清掃が人生の再スタートだった。三八歳の年齢の割に人の使い方がうまいのは、こんな経験も影響しているのかも知れない。一歩、間違えていれば、もう自分はこの世に存在していなかったかもしれないという経験・・・・。

「死ぬわけじゃないから」いつも仕事がハードになると、矢野がポツリつぶやく言葉だ。

「眠くない? タイチョウプ、自分、少し眠いね。たまになんで辛い仕事してるんだろうって思うよ」
 ふと矢野がいつもの冗談混じりの言葉使いで言う。

 

辛い仕事は食うためよ、食えれば楽しみも増える

「食うためや、食べなあかんやろが、そしたら、また、グッピー飼ったり、柴犬、育てるのと同じように楽しみも増える。ポケモンゲームもずっと、やれるよ」
 

    片山が関西弁で返した。以前に飲みに出かけた時、片山は矢野に自分の罪を浄化するために、そして大いなる存在に奉仕するために人間は苦しむということを話した記憶があった。

    矢野が育った家は父親が印刷会社を経営していたことから裕福で、幼少の頃に住んでいたマンションは近くが有名な医者が院長の病院の近くだった。

 その医者と祖父母が親しかったという。医者はキリスト教にも精通していた、そんな話を矢野と酒に飲んだ際に聞いた。

    片山はその有名な医者のことを知っていた。そんな話をしながら、ふとキリスト教の話になり、そんな話をしたのだ。 

    しかし矢野はこの時のことを覚えていないのかもしれない。だから今回は自分の罪を浄化するためだとは片山は言わなかった。ただ、当たり前に必要なことだけを言う方がいいと思ったのだ。