Novel「闇が滲む朝に」第2章□3回「リストラされた平の話がとまらない」

 片山二郎は料亭「鈴音」で先輩の鈴木平を待った。平はパソコン関係の会社を2年前にリストラになってから清掃の仕事を始めた。話好きの平はさっそく、先日のボクシング世界戦のことを話し出す。平は話し出すと止まらない。そんな平と話しながら、決して楽ではない仕事の気分転換になると片山は思う。

話が止まらない先輩の平という男
 片山二郎は午前九時四十五分に「鈴音」に到着すると中に入った。
「おはようございます」
ビル受け付けには既に「鈴音」事務員の森明子が来ている。片山は明子に挨拶すると清掃スタッフの待ち合わせ場所のドアを開けた。そこは隣接するビル内の駐車場で中に倉庫があり、ここに清掃道具を入れている。

 片山は鍵で倉庫を開けると、バケツ、モップ、ほうき、ゴム手袋などを取り出した。簡単に用意を済ませると近くにある椅子に腰を下ろした。

 料亭「鈴音」の清掃担当は、片山の他に先輩の鈴木平が配置されている。鈴木は片山よりは三歳年上で、太陽クリーンオフィスで仕事を始めて2年が経過していた。「鈴音」に来る前は、早朝から近くのオフィスビルで仕事をしている。

 平はいつも午前十時の五分前位に現場に来る。ギリギリが得意なのだ。その時間にはまだ、少し時間はある。

   片山はポケットからスマホを取り出すとメールが入っていないかを確かめた。たまに急用が昼や夕方の仕事場の本部から入る場合があるのだ。

 休憩所と事務所を兼ねた「鈴音」内の倉庫は格子状のシャッターになっていて、表通りの様子が見える。この辺りは下町とはいえ比較的、オフィスビルが多いことから、常に多くの人々が行き来しているのだ。

   若い女性も多く片山は、ただその人たちを眺めていても飽きがこないと思っていた。そんな自分は全く馬鹿な男だとも思う。

   午前九時五〇分頃、格子上のシャッターの向こう側に平の歩く姿が見えた。片山はゆっくりと椅子から腰を上げた。

おはよう」
 平が駐車場に入って来た。
「今日も雨だね。しかし、本当に雨の日が多いなぁ。片山ちゃん、昨日のボクシングの試合見た?」

 さっそく平が話しだす。とにかく、平は話が好きなのだ。体はそう大きくないくせに、話し出したらとまらない。体の大きさと話好きは関係ないか。パソコン関連会社を2年前にリストラされて、清掃の仕事に就いたが、何というか、全くリストラされたという悲壮感がない。

 家族は奥さんと二人暮らしというのも背負うものがなく身軽なのかも知れないと片山はいつも思う。そんな平の話を片山は気分転換にはいい、と思っている。清掃の仕事は決して楽ではない。だから、気分転換のための話し好きは多い。

ボクシング世界戦の話で気分転換
「ボクシングの世界戦、井岡の試合でしょう。勝ちましたね。4階級制覇で凄いですね」
   片山も平もボクシングが好きで話があう。
「今、日本のボクシングでは井上が一番に強いからな」
「でも、階級が違うから」
 片山が言う。

「まあね。井岡はスーパーフライ級で井上はバンタム級だからね。でも二人とも階級を上げて頑張っているよ」
「井岡の対戦相手はフィリピンの選手だったけど、パッキャオがチャンピオンになってから、フィリピンの選手も強くなりましたね。  パッキャオは幼い頃に貧しい生活の中で、闘鶏を見たらしいんですよ。そこで、強くならないと自分はやられると感じたらしいですね」

「なるほどね。闘鶏か。そういえば、ボクサーの映画では最近、『クリード2』を見たよ。あれもよかったね」
 平は話を先へ先へと進める。それはうるさい程だ。

 シュシュとシャドーボクシングする平の話が止まらない。このままだと仕事をする時間が短くなってしまう。事務員の明子に気づかれてもまずい。

   一度、明子が二人のいる場所に来たことがあった。この時も平が得意げに話し込んでいた時だった。その時のことを思い出した片山は、話を変えるようにドアの方に歩き出した。

竹の葉が雨に濡れて緑が映えてみえた
 ふと何か気が付いたように、我に返った平は倉庫からバキュームを取り出す。いつもそうだ。何かに気づいたように平は我に返る。どこか病気なのだろうか。
 平は「鈴音」では主にバキュームを担当している。
「そうですね。こう雨が多いと精神的にも困りますね」
「本当に太陽を見る機会がないね。ここしばらく」

 平はバキュームを片手に持つと「さ、始めようか」と中に続くドアを開けた。
 片山はモップとペール缶を持つと外に出た。ペール缶に水を入れた後で廊下を拭くモップを水に浸しておくのだ。

 しかし、外では小雨がぱらついている。
 片山は少し急いで「鈴音」の裏口に出て奥の水道の水を捻った。こんな時こそ慌ててはいけない。雨の日は滑りやすいのだ。大きく深呼吸するとペール缶の水が半分に溜まったのを確認し、水道の蛇口の栓を閉めた。ビル脇の竹の葉が雨に濡れて緑が映えてみえた。